ねえ、どうするんですか。
今期の大河ドラマ。
毎回、毎回、盛りだくさんすぎてレビューが追いつきません。毎回見せ場がいくつもあって、ぎゅうぎゅうてんこ盛りなの。なんなのこの脚本家、天才かよ。
スゴイよね。45分のドラマを50回近く書く前提で、今まで1回も水増し回がないんだよ。水増しって、つまり、ちょっと内容を薄めたり、あるいはどうでもいいことを挟んだりして時間をもたせる、ってやつね。私の記憶では1回もない。木曽義仲とか、出てきたと思ったらすぐ退場だったよね。やろうと思えばいくらでもエピソードはあるのに、そこは、本筋をブレさせないために、余計なことはしない。この捨てる勇気!!!
それだからこそ、こんなにたくさん登場人物がいるのに、1人1人が印象的で記憶に残る。義高だってさあ、あんだけ見目麗しくてネットもざわつかせてたんだから、も少し引き延ばしちゃおうかな、って思ってもおかしくないじゃん。なのに、無駄な引き延ばし、一切なかったよね。魅力的な人物が次々現れては消えていく。しかも、一流の役者さん使ってるのに。この忖度ない感じ。スピード感。すごいって。
で、今回もてんこ盛りすぎて、1回では書ききれなかったんで、2回シリーズになります。
まずは、タイトル通り、義経が鎌倉に無言の帰還した件。
泣きましたわ。頼朝が首桶と対峙する場面。
大泉洋の演技よ! 間もすばらしかったけど、今回は感情のクレッシェンド感が光りましたね。
まずは大泉頼朝のアップ映像。「九郎、よお頑張ったな」の第一声。え、何、会えたの?と、ちょっと期待しちゃうあたし。なんせ、九郎が死んだシーンはなかったからね。義経不死説?とかね。だけど、カメラが引きになって、頼朝の前に黒い首桶があるのがわかる。ああ、そうでしたか。そんな形でご帰還ということなんですね、と。
大泉洋の芝居が静かに語る調子なので、見てる方も静かに納得できていくんだよね。
真横からのショットもよかった。背筋をピンと張って、まっすぐに首桶に向き合って、静かに語る。一ノ谷、屋島、壇ノ浦……と、九郎の目覚ましい功績を列挙して「どのようにして平家を討ち果たしたのか。お前の口から聞きたいのだ。」と話しかける。「いや、もう口きけないから、あんたのせいで」と心の中で突っ込みながら、もう涙止まらん。「ああ、もう九郎は話すことができないんだ」ってじわじわ伝わってくる。
で、頼朝の感情が少しずつ高まっていって悲しみがあふれて慟哭になるまで。その心情のうねりに、見ている側がまんまと巻き込まれちゃう感じ。静から動への自然な流れが良かった。多分、頼朝が九郎の死を実感していく過程を、見ている側も追体験してるんだろうね。まあちょっと激しく泣きはじめると大泉洋感が強く出ちゃう感じがしたから、もうちょい静かに泣いても良かったのかもとも思うけど、そこは、まあ好みの問題だよね。
とにかく、あの泣きに至るまでの絶妙な演技で見事に見てる側の心をつかんじゃったからさ、自分で殺しといてなに泣いてんの? みたいな白けた感じに全くならなかった。ほんと難しいところだと思うのよ。だって、実の弟を悪質な謀略をもって殺してるんだよ。しかも自分を慕ってて、ほんと無欲に自分のために命をかけて平家討伐してくれたんだよ。なのに、自分は手を汚さず、メンタル的にも追い詰めて殺しちゃったんだよ。泣く権利ないじゃん、全然。でも、あのシーン見たらそんな疑問吹き飛んじゃうよね。すごい説得力があった。これまでに積み上げてきたもの、兄弟愛とか、すれ違いとか、すべて回収したね。脚本と演出と演技がそろってこその見事なシーンだったなぁ、って思う。
で、あのシーンで実際に演技をしたのは頼朝だけど、その土台を作ったのは菅田九郎義経なんだよね。たった45分の中でほんといろんな表情を見せてくれました。それはもう、あの手この手。菅田くん、ほんと器用だよな、って思う。九郎の魅力、詰め込めるだけ詰め込んだ感。上総介が死ぬ回に挟み込まれた手習いのシーンみたいなのを、もっと大々的にやった感じ?
まず、あの冒頭の秀衡とのシーンの涙。微動だにしないで、涙だけダーッて流れるの。まるでマンガみたいなこと実際にやっちゃうのね。ずーっと駒として使われ続けてきた九郎が、やっと。やっと、1人の人間として「頑張ったな」って受け止めてもらえたんだよね。疲れ果てて麻痺しかけてた九郎の心に人間らしさが戻った瞬間。それがあの静の演技からにじみ出てた。奥州に戻ってよかった。奥州で生きよう。って九郎が思うのに十分な理由だよね。
でも、まあ、ここまでいろんな経験してきちゃったからね。九郎自身の言葉を借りるなら、「何でも信じすぎる」人間から、「いろいろ学んだ」人間になったわけだ。で、より複雑になった人格を、絶妙に表現してた。たとえば、百姓としての生活をそこそこ楽しんでるふうでね、「平家を倒したオレが、今はこおろぎと戦ってる」とか冗談言ってる姿は無邪気なのに、その流れの中で平然と「奥州に攻めてきたら、鎌倉が灰になるまで戦う」って凄んでみたりする。その目はやっぱり怖かったけど、それは以前のサイコな九郎の目とは違ってた。正気だったね。前みたいに、自分の感情がコントロールできなくて狂気に走っちゃう、って感じは、もうどこにもなかった。真っ当に奥州を守ろうとしている正気の睨み。大人になった感あったわ。なんなん? この微妙な演じ分けは。
あ、あとあのシーンもびっくりした。小四郎がうっかり口を滑らせた体で静御前の話をするところ。「知らないならわざわざ話しません」的な小四郎の態度に、九郎が「いいから話せ」と命じたところ。農作業中だった九郎が手を止めたままそこに立ち尽くして、もう微動だにしないの。その小四郎に向けた圧がすごくて、菅田くんの周り1m四方になんかオーラが見えた気がした。すごいよ。「微動だにしない」っていうのの見本みたいな演技なの。まじ、じっとしてるだけなんだけど、周りの空気が変わるっていうのかな。ちょっとぞわわってきた。なんであんなことが可能なんだろうね。そういうものまで演技でコントロールできるもんなんだなぁ、って思ったよ。若いのに、すげえ。
すげえ、と言ったら、あのシーン。
正妻の里が、「京で義経と静御前に刺客を手引したのは自分だ」って暴露したシーン。九郎はずっと頼朝が差し向けたんだと思っていて、それが、まあ、早い話、このすれ違いの悲劇の大きな原因の1つになってたからね。自分が勘違いしてたって知った驚きとか、妻に裏切られた怒りとか、勘違いに対する後悔とか、まあ、いろいろ去来したと思うんだけど、その時のセリフ。「お前が、呼んだのか」ってね。ほんと短いんだけど、「お前が」と「呼んだのか」の間の表情の変化が半端なかった。瞬間に閃いた殺意っていうの? それが顔芸で瞬時に表現されてたのよ。だから、次の瞬間に里を刺し殺したことに違和感がなかった。本当なら、いやちょっと、それは短絡的というか、居合抜きですか?みたいなね、そんな瞬間的に殺す?っていうくらい衝動的な行動なんだけど、あの一瞬の表情の変化で見るものを納得させちゃった感じがする。でも、あくまでもサイコではなかった。すごいよね。徹底的にサイコパスは封じてたと思うよ、今回。
もうね、そういう細かいところ挙げたらキリがないくらいの小技のオンパレード。九郎の見納めだからね、三谷センセ出血大サービスってところでしょうか。
で、最後も九郎らしかったねぇ。あれは脚本の妙だと思うけど。
自分をはめた小四郎を呼んで、鎌倉攻めの策を聞かせるとか。これはまさか事実じゃないよね。フィクションだよね?でも、「奇策で世間をあっと言わせて勝利すること」=「生きること」だった九郎らしい。生きた証を残したかったんだな、って。「どうよ、この策」って、わかってくれる人にどうしても見せたかったんだろうね。結局のところ、九郎の欲望はこれに尽きるのよ。この承認欲求が強い感じ。でもその承認欲求が強すぎてやりすぎちゃって身を滅ぼしたことを考えると、最後の最後まで、なんともはがゆい九郎の人生を物語っているようで、どうにもやりきれない気分になっちゃったよ。
ただ、あれを敢えて梶原景時に見せようとしたのはなんでかね。「なぜそこで梶原殿?」って思ったんだよね。だって、そんな特別な関わりがあったようには描かれてないよね。まあ、一緒に平家討伐に行ったけどさ。特に何かエピソードあったっけ?って感じ。
しかも、ここまで、けっこう微妙なのよ、梶原景時の描き方が。何ていうの、つかめない。そのスタンスがよくわからん。最初に、頼朝を助けたのも謎だし、その後もいかにも裏切りそうな感満載で、でも結構重用されてるっていうね。不思議な感じ。獅童さんの演技もまあ、見事に表情がないから、ほんと読めん。今回、義経から手紙をもらったというのが、この後のなんかの伏線になってるのかね。だってよ、小四郎は口頭で聞いただけだから「知らなかった」ってしらを切れるけど、景時は書面でもらっちゃってるじゃん。なんか証拠持たされた形になってない? 考えすぎかな。
そういえば、今回小四郎に善児をつけたのも景時じゃん。あれもなんかわざわざ「梶原さまに言われて」みたいに言ってて、気になったんだよね。善児を演じてるのが梶原善だから、「おいおい、梶原が梶原を推薦してるのかよ。」とか思って1人でほくそ笑んでたんだけど、よく考えると、ちょっと意味深かもね。今後気をつけてみていこう。
関係ない話ついでに、今作では武蔵坊弁慶の扱いが雑すぎてびっくりレベルだったよね。義経との出会いとか完全に省かれてたし、描かれ方も驚くほどとってつけた感じで、単なるいじられ要員だった。いるの忘れちゃうレベルに出てこなかったし。しかも、最後、仁王立ちしたまま絶命するという超英雄的な伝説のシーンも、あろうことか「きゃはは、弁慶ガンバってるぅ~」って、義経に笑われて終わるっていうね。いや、なんですか、この徹底した軽視っぷりは。三谷センセ何のつもりだったんだろう。こんな扱いなら、もうむしろ出さないほうがよかったんじゃないの? って思うのはあたしだけ?
私の予想としては、脚本の時点ではもう少し出番があったんじゃないかなと思うのよ。おかしいもん。ディスってるわけじゃないんだけどね、現場の判断とかでカットされたんじゃないかなぁって思ったりしてる。
なんていうか、ちょっと言いにくいんだけど、役者さんの演技が慣れてない感があって見ててとちょっとハラハラするっていうか、「がんばれ」って応援してしまう感じ? コメディやるにはあと一息っていうかね、、、とか失礼なこと思いつつ調べたら、元ラガーマン俳優さんだったよ。え、まって、「ノーサイド・ゲーム」に出てたの? もう、大好きなんだけどあのドラマ。でもラグビー選手は主立った人しか覚えてない。って、えー、里村亮太役の人じゃん!! 思いっきり「主立った人」じゃん。全然わからなかった。まじかー。やっぱり時代劇で衣装がちがって、立ち居振る舞いとかもちがってくるといろいろ難しいものなのかねぇ。あんまり大柄っていうイメージも出てなかった気がする。確かに背は高かったけど。
なんだろ、九郎が緊張感のある役だったから、本当は頼朝に対する亀的な位置づけだったのかなと思うわけですよ。ふっと場を緩める感じ。だとしたら、もう少し遊べた気はするのでちょっともったいなかったね。もっとふりきっちゃってもよかったのかもね。でも、シリアスなストーリーの中でのコメディ要素って、めっちゃ難しいからねぇ。
個人的には、ティモンディの高岸をもってきたほうが面白かったんじゃないかなぁって思うのよ。なんか、立ってるだけで愉快だし。そういう方向性だよね、今作の弁慶の設定が。ってか、ずーっと気になってたのよ。高岸さんの使い方。あれ、なんであそこに置いたのかな、って。良くも悪くも目立つじゃない。存在感あるんだよね。で、ちょいちょい出てきていい味出してたと思うのよ。あっっ! もしかして、最初は弁慶やる予定だったとか? なんか大人の事情があったとか? そう考えると腑に落ちるんだけど、まさかね、さすがにそれはないよね。あー、でも、想像すればするほど「高岸ティモンディ弁慶」見たかったかも
ま、でも弁慶の最後はよかった。戸の隙間から九郎が見ている姿を想像させるという終わり方は、演劇的ですごく好き。その前に、竹の鎧を着込んだりとか、コミカルな場面があったし、菅田くんの「きゃはは」っていう軽~いノリが効いていて、悲壮感が全然なかったのがよかった。その延長線上に生じるであろう菅田九郎義経の死も、「まあ、こんなもんでしょ」的な明るさをもって迎えられたのだろうと、視聴者に想像させるいい仕掛けになっていた気がする。
小四郎との別れも軽かったしね、「あ、もういいよ。来た道帰って。」って振り返りもしない。もう、この世に未練はないって感じだった。妻も娘も殺しちゃってるしね。
あの軽さがあってこそ、最後に首だけで鎌倉に帰ってきたことがね、見てる側としても、なんか実感ないというか、え、やっぱりそうなの? 死んじゃったの? ほんとに? みたいな感覚を生んだと思う。
見事な最後だったよ、菅田くん。もういないのかと思うと、めちゃ寂しい。来週から何を楽しみに見たらいいんだろう
第20回、まだ書けてないことがあるのよ。
続きは、またあとで。