ミカエルの意味 | 大分アントロポゾフィー研究会

大分アントロポゾフィー研究会

ブログの説明を入力します。

ルドルフ・シュタイナーのテキストに何度も登場するミカエル/ミヒャエル/Michael とは、端的に言えば、アントロポゾフィー/精神科学の謂いである。

彼、大天使ミカエルは、意識魂として、感覚魂、悟性魂/心情魂を足下に置き、人間の魂に巣食ったアーリマン/ルシファーに打ち克つ。意識魂に覚醒した人間は、純粋思考を成し、唯物論の幻影から自由になる。

 

″ここで、「神秘学を探求する人は、個々の事象は何を意味しているのか、ということばかり考えるべきではない」ということを強調しておきたいと思います。なぜなら悟性を働かせても、私たちは正しい道から逸れてしまうだけだからです。神秘学を探求する人は、まず新鮮な気持ちを抱いて、健全な感覚と鋭い観察の才能を働かせながら感覚的な世界を観察し、そのあとで自らの感情に身をゆだねるべきなのです。私たちは、個々の事象が何を意味しているのか、ということを、悟性的な思考をとおして理解するのではなく、事物そのものに語らせるべきなのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 42)

 

「新鮮な気持ちを抱いて、健全な感覚と鋭い観察の才能を働かせながら感覚的な世界を観察し、そのあとで自らの感情に身をゆだねる」とシュタイナーは語る。「新鮮な気持ち」を抱くとは、観察対象を今初めて自分の前にそれが現れたかのように見ることを意味する。それは謎として現れており、あなたはその出現に驚くのだ。それまで存在したあらゆる物語りや説明の類、要するに過去の悟性的思考の蓄積は役に立たない。

 

「私たちは、個々の事象が何を意味しているのか、ということを、悟性的な思考をとおして理解するのではなく、事物そのものに語らせるべきなのです」とシュタイナーは語る。「事物そのものに語らせる」とは、事物に内包されている神々の純粋思考、つまり霊に、あなた自身の純粋思考を以て応えることを意味する。純粋思考/霊には、純粋思考/霊を以て応えなければならない。霊が共振するのだ。

 

さて、純粋思考とは何か。そして、霊とは何か。

これらの問いについては、つまるところ、悟性的な説明で答えることはできない。繰り返しになるが、純粋思考には純粋思考で、霊には霊を以て、応じなければならない。純粋思考は、あなたの意識魂に姿を現し、その純粋思考を以て、事物と事象を観察することによって初めて、「それ/Es」は本当の姿を見せる。だから、あなたが意識魂に目覚めておらず、純粋思考を働かせることができなければ、あなたには「それ/Es」の本当の姿は見えない。あなたに見えるのは、過去の亡霊、アーリマン/ルシファー由来の幻影だ。マテリアリズムとセンチメンタリズムの怪物や道化たちである。

 

だから、この、ある意味、究極的な問いには、あなた自身が答えを出す以外にない。そのために、アントロポゾフィー/精神科学が助けになる。

 

“さらに重要な意味をもつのは、神秘学において、高次の世界における位置確認 Orientierung と呼ばれている訓練です。物質的・感覚的な世界における机や椅子と同じように感情や思考は現実的な事実である、ということを完全に理解するとき、私たちは高次の世界において自分の位置を確認することができるようになります。物質的な世界における感覚的な事物がおたがいに作用しあうのと同じように、魂の世界と思考の世界では、感情と思考は相互に影響しあっています。・・・神秘学においては、私たちは、物質界で一歩一歩の歩みに注意をはらうのと同じように、みずからの思考や感情に心を配る場合にのみ、前進することができるのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 42,43)

 

感情や思考が現実的な事実であり、私たちの魂の空間で、さらには思考の世界、すなわち霊たちの国において、相互に影響し合っているこの状態は、そのまま純粋思考の在り方であると見ることができる。つまり、感情と思考とは切り離して考えることができない。ここに、人間の 体 - 魂 - 霊 を考察する精神科学の難しさがある。同時に、このベクトルから、つまり、ミカエルの視点から、これらの問題を考察した思想的営みは、これまでなかったのである。

 

そして、私たちは幸か不幸か、ともあれカルマに導かれて、ミカエルに出会った。アントロポゾフィーに出会ったのだ。だが、純粋思考としてのアントロポゾフィーは、どこか外の世界にあるものではない。それは、人類の未来の記憶として、私たち一人一人の中にある。

私たちが、意識魂に目覚め、そこに純粋思考が働くようになれば、私たちはその時、本来の「それ/Es」を見出す。「それ/Es」は「あなた/Du」であり、・・・「わたし/Ich」であることを、いわば思い出すことになる。

もちろん、道のりは遠い。それは、事実だ。

 

“・・・神秘学の学徒は、強引な性格・感情への惑溺・愛情を欠いた冷ややかな知的欲求という、三つの誤った道に陥る可能性があります。表面的に観察してみると(たとえば一般的な医学の見地から唯物論的に観察してみるだけでもよいのですが)、このような誤った道に入り込んでしまった学徒が陥る状態は、程度によっては、心を病んだ人や重い「神経症の人」の症状とほとんど同じであることがわかります。

もちろん神秘学の学徒が、心を病んだ人と同じ状態に陥るようなことがあってはなりません。神秘学の学徒が何よりも心がけなくてはならないのは、まず思考・感情・意志という三つの基本的な魂の力を調和的に発達させてから、そのあとで三つの魂の力の結びつきを解き、目覚めた高次の意識によってこれらの力を支配するようにすることなのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 221,222)

 

私たちは、芸術の素質に恵まれ、感性豊かな多くの人たちが、心のバランスを崩し、破滅するのを繰り返し見てきた。また、芸術に限らず、例えば、政治や経済の世界で名を成したいわゆる成功者たちが、同様に非人間的になって狂っていくのを何度も目撃してきた。

このような人たちの破滅や狂気は、不可避なのだろうか? 彼らの魂と人生に起こったことは、実のところどういうことなのだろうか? これらの問いを、私は決して無視したいとは思わない。私とその人たちは、地続きだと思うから。

 

さて、重苦しい雰囲気のまま終わるのも無粋だと思うので、最後に聖霊の恵みのようなエピソードを置くことにする。

 

“さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペトロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、すぐに舟と父をおいて、イエスに従って行った。”(「マタイによる福音書」第4章)

 

純粋思考を成すことができるようになると、人間の体(たい)が光であることが明らかになる。悟性的思考にとどまる人の体とは異なり、純粋思考を成す人の体はオーラを放つのである。ただしそのオーラは純粋思考を成さなければ見えない。キリスト・イエスは、シモンとアンデレ、そしてヤコブとヨハネのオーラを確認し、「わたしについてきなさい」と彼らを招いたのだ。そして、彼らはキリスト・イエスの弟子になった。彼ら弟子たちは「わたしについてきなさい」と彼らを招くキリスト・イエスの光のオーラを目の当たりにして、故郷を捨てて、イエスに従ったのだ。ここに、キリスト・イエスと弟子たちの純粋思考による共振を見ることができる。

そして、キリスト・イエスの言う「人間をとる漁師」とは、純粋思考を成し、純粋思考の言葉を話し、そして自らの体を純粋思考によって輝かせることのできる人間となることを意味しており、そのような人間は自らの純粋思考の言葉とその体の放つオーラ/光によって、他者を引きつけ、感化することになるのである。まさしく、キリスト・イエスがそうしたように。そして、ベートヴェンがその第九交響曲において、シラーに共感しつつ、それを音化して、私たちの魂をあたため、生きる力をもたらしているように。