いかにして純粋思考は始まるか (1) | 大分アントロポゾフィー研究会

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意識魂が目覚め、そこに純粋思考が現れるとき、人は何かいつもとは違うものを感じる。

多くの場合、意識魂が一度に全面的に覚醒することはない。そして、純粋思考にも濃淡や強弱に類する違いがあり、それに伴って、その現れ方も様々である。

 

この地上に生まれる前、つまり私たちが霊たちの国に在るとき、私たちは皆、純粋思考を成している。そして、その純粋思考を以て、他の霊的存在たちと交流している。そのような霊的過程を経て、私たちのカルマが織られ、更新されてゆく。カルマとは、私たちの高次の自我である。そして、それは同時に純粋思考である。

 

高次の自我は、再びこの地上の世界に降りてくるとき、自らが他の霊的存在たちとの関わりの中で更新した霊的核心であるカルマを担っており、このカルマに従って自らの体(たい)を形成する。だから、新たな地上の生活を始めるに際して担い、形成する体の中に、いや、その担い方や形成の仕方の中に、霊たちの国から携えてきた生命的な思考、意志的な思考、つまり純粋思考が働いているのだ。

もちろん、私たちの低次の自我は、このような事の成り行きを意識することはない。しかし、例えば、芸術的な才能や気質の違いなど、自然科学では説明しようのない人生の謎を理解しようとすれば、以上の視点が不可欠である。純粋思考とカルマにまつわる視点が。

 

私たちの体の中に息づくそのような霊的なるもの、つまりカルマとしての純粋思考は、イントゥイション/Intuition である。この霊的直観を、私たちは通常意識していない。なぜなら、それはアストラル空間である魂以前の境域にあり、より根源的なるものだから。この領域について、悟性魂/心情魂の編むいかなる物語も適用することはできない。それは、端的にカテゴリーエラーである。

 

次に、ルドルフ・シュタイナーの『いかにして高次の世界を認識するか』から、「境域の守護者」に関する文章を引用する。秘儀の核心部分なので、少し長くなるが、引用したい。

 

“・・・「境域の守護者」と出会った瞬間から、神秘学の学徒は、一人の人間としてのみずからの使命を知るだけでなく、自分自身が属している民族や人種の使命のために意識的に働かなくてはならなくなります。視野が広がるたびに、学徒が担う義務も限りなく拡大していくのです。

このとき神秘学の学徒は、実際に、みずからの繊細な魂的な体に新しい体をつけ加えることになります。いわば学徒は、さらに魂的な服を着るのです。それまで学徒は、地上的な人格を包み込む覆いを身にまとって世界のなかで活動してきました。共同体や民族や人種のために仕事をしなくてはならないときには、学徒の人格を手段としてもちいる高次の霊が手伝ってくれました。

しかしいま「境域の守護者」は、これから先は高次の霊は学徒を導いてくれない、と告げます。学徒は、あらゆる共同体の外に出ます。このとき、民族や人種の霊に内在している力を自分で身につけておかなかったら、学徒は孤立した人間として完全にかたくなになり、破滅してしまうことでしょう。

このとき多くの人は、次のようにいうことでしょう。「私はあらゆる種族や民族との結びつきから完全に自由になりました。私は単なる人間になりたいのです。私は人間以外の何者にもなりたくありません」

このような人に対しては、次のようにいわなくてはなりません。「誰があなたをこのように自由にしてくれたのですか。家族があなたを世界のなかに生れさせてくれたおかげで、あなたはいまこうして存在しているのではないのですか。いまのあなたを作り上げてくれたのは、あなたの種族や民族や人種ではないのですか。あなたが属している種族や民族や人種は、あなたを教育してくれました。あなたがあらゆる偏見を乗り越えて、あなたの種族や民族や人種のために光と善行をもたらすことができるのだとしたら、それは種族や民族や人種があなたのためにほどこしてくれた教育のおかげなのです。あなたが『人間以外の何者にも』なりたくない、というときでさえ、あなたがそのようなことをいえるようにしてくれたのは、あなたの共同体の霊なのです」

神秘学の学徒は初めて、民族や種族や人種の霊に完全に去られるということが、何を意味するのかを認識します。学徒は自分自身の体験をとおして、これから先の人生において、これまで民族や種族や人種がほどこしてくれたあらゆる教育が意味を失うことを知ります。それまで学徒が学んだ事柄はすべて、意志と思考と感情の糸が断ち切られることによって、完全に消滅します。学徒はあらゆる教育の成果を振り返ります。いまや学徒にとって、自分が受けてきた教育は一つひとつのレンガに分解してしまった家のようなものであり、学徒はこれからレンガを積み上げて、新しい形の家を作らなくてはならないのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 235~237)

 

自らの悟性魂/心情魂の外に出ることにより、人は「境域の小守護者」に出会うことになる。私たちの悟性魂/心情魂の形成者ともいえるミームから抜け出るのだ。ミームと同一化した悟性魂/心情魂という「地上的な人格を包み込む覆い」を脱ぐ。そのような「覆い」を、種族や民族や人種の霊が私たちにもたらしてくれていた。私たちの思考と感情と意志とは、悟性魂/心情魂のアストラ空間において、緊密に結びついて働いていた。そのような、あたかも予定調和のような状態を、ミームと呼んでもいいだろう。

さて、いまや、神秘学の学徒は「これから先の人生において、これまで民族や種族や人種がほどこしてくれたあらゆる教育が意味を失うこと」を知り、「それまで学徒が学んだ事柄はすべて、意志と思考と感情の糸が断ち切られることによって、完全に消滅」する。ミームの外に出るとは、そのようなことだ。

「いまや学徒にとって、自分が受けてきた教育は一つひとつのレンガに分解してしまった家のようなものであり、学徒はこれからレンガを積み上げて、新しい形の家を作らなくてはならない」とシュタイナーは語る。さて、このことはいかにして可能となるのだろうか。新たに「レンガを積み上げて、新しい家を」作ることは。

シュタイナーはここでは、「レンガ」や「家」と比喩的に述べているが、これは、悟性魂/心情魂、そしてミームの外に出ることにより、それまではある意味調和的に結びついていた思考と感情と意志が分裂することを意味しており、そして新たに思考と感情と意志の統合を成し遂げることを意味している。

過去の教育の成果が無効となり、自らの内に再生のための生命の光、霊の光を見出さなければならない。

 

いずれにしても、過去の教育の成果である一つ一つの「レンガ」がどこにどのように転がっているかを見きわめるためには、インスピレーション/Inspiration の営みが必要である。これによって、物事の関連づけができるようになる。インスピレーションは、一度始まれば、あたかも血流のように、生命の流れのように、ほとんど自律的にずっと続いていく。そして、ミームの軛(くびき)を回避しながら、物事の新しい結びつきを見出す/生み出す。これまで想像すらしなかった、いわば隠された事柄が現れる。思いもかけない事物の結びつきが明らかになる。

眠りから覚めた時に、昨日はまだはっきりとは分かっていなかった問いの答えが見つかる。ほぼ毎日。天使のささやきのように。

 

1 お金について

お金が人を哀れ(あわれ)にしたり、惨め(みじめ)にしたりする。同じ地平において、お金は人をうわべだけの喜びや成功に導く。このとき、お金にまつわる不幸はリアルだが、お金にまつわる成功や幸せは束の間の幻だ。

幸不幸(こうふこう)を感じるのは、個々の人間の魂だ。あなたのペルソナとシャドーが、人生ゲームの一喜一憂を繰り返す。

お金という亡霊が、人の悟性魂/心情魂に深く食い込み、絡み合っている。だから、お金の正体を悟性的思考によって見抜くことはむずかしい。

 

2 現世利益(げんぜりやく)について

悟性魂/心情魂は、現世利益を追求する。

 

現世利益(げんせりやく)とは、仏教や神道において、信仰や修行により「今生きているこの世(現世)」で受ける神仏の加護、無病息災、招福、願いの成就といった恵みのこと。修行による徳として自然に与えられるもの(浄土教など)や、祈祷によって積極的に求めるもの(密教など)など、宗派や宗教観によって位置づけが異なる。”(Google AI)

 

上に引用したように、Google AI は、仏教や神道に関連した形で、現世利益を説明しているが、むしろ、悟性魂/心情魂に顕著なマテリアリズムとエゴイズムの特徴的な表れというベクトルから見た方が、少なくとも私にはわかりやすく思われる。この世に生きる誰もが、通常、この現世利益という視点から物事をとらえ、日常生活を営んでいると思われるのだ。

そして、このような現世利益という観点に囚われていることによって、むしろ快苦の振幅が高まり、結局は自分のみならず身近な他者を傷つけ、不幸にしてしまうことにつながっているのではないか。身勝手な一人相撲と、勝ち負けや復讐の論理に縛られた人生ゲーム。そこにいつもお金の影がちらついている。

 

3 ギャンブルについて

ギャンブルにお金はつきもの。人が現世利益を追求するとき、まず間違いなく、お金にまつわるあれこれがつきまとう。そして、現生利益を追い求める人間の行動は、必ずと言ってよいほど、ギャンブルの様相を呈する方向へ向かいがちである。

自分の願望や行動に対するを見返りを常に求めているのだ。

 

4 依存症について

自分の本来の故郷が霊たちの国であることを忘れると、魂は強烈な虚しさの感情に取りつかれるようになる。唯物論的思考から来る虚無感だ。このような虚無感を一時的にでも回避しようとする絶望的な企てが、他者に依存することである。この場合の他者とは、どこまでも「物」としての他者「それ/Es」である。

唯物論的な悟性的思考を繰り返すことにより、人は依存症への道を辿る。自らの内に霊的生命を感じることができないことによる。悟性魂/心情魂の宿命だ。

 

5 自己愛性パーソナリティ障害について

最初に、Google AI  による概要を引用する。

 

“自己愛性パーソナリティ障害(NPD)は、誇大な自己評価、称賛への欲求、共感の欠如が特徴の精神疾患です。特別な存在だと思い込み、他者を利用・見下すため人間関係に摩擦が生じやすい。原因は特定されていませんが、遺伝や幼少期の環境要因が影響すると考えられています。治療は精神療法が中心です。 MSD ManualsMSD Manuals +6

 

自己愛性パーソナリティ障害の主な特徴

  1.  誇大性: 自分の能力や業績を過大に評価し、才能があると思い込む。
  2.  称賛への欲求: 他者から認められたい、褒められたいという強い欲求がある。
  3.  共感の欠如: 他者の感情やニーズを理解したり、配慮したりすることができない。
  4.  特権意識: 自分は特別であり、無条件に優遇されるべきだという信念。
  5.  嫉妬心: 他者の成功に嫉妬したり、逆に他者が自分に嫉妬していると誤解したりする。
  6.  対人関係の利用: 自分の目的を達成するために、他人を平気で利用する。 MSD ManualsMSD Manuals +8

行動パターンと周囲への影響

  • 傲慢な態度: 高慢な言動や見下す態度をとる。
  • 批判への過敏さ: 批判されると傷つきやすく、激しい怒りや引きこもりを見せる。
  • 人間関係のトラブル: 境界線を軽視し、一方的に要求を突きつけるなどして職場や家庭で問題を起こしやすい。北越谷駅前さくらメンタルクリニック北越谷駅前さくらメンタルクリニック +6

この障害を持つ人は、自身の「脆い自己肯定感」を隠すために防御的に振る舞うとも解釈されています。周囲の人は、適切な境界線を保ち、感情的にならずに対応することが重要です。”(Google AI)

 

以上、自己愛性パーソナリティ障害(以下、NPD)について、Google AI によるその概要を引用したが、この説明に端的に示された NPD の特徴や行動パターンを、現代社会に生き、悟性的思考を成す多くの人が自らの内に持ち、多かれ少なかれ NPD のようにふるまい、行動している、と私は感じている。私自身の生い立ちや人生径路の大半の部分に、NPD的な傾向を自覚するが故に、身につまされるのかもしれない。

Google AI は、「この障害を持つ人は、自身の『脆い自己肯定感』を隠すために防御的に振る舞う」と説明しているが、「儚い自己肯定感」とは何だろう? 自己肯定感なるものは、自らの内に霊的生命を実感して初めて、十全な形で姿を現すものだ。つまり、自らの霊的故郷を忘れ(この世に生きるほとんど誰もがそのような状態である)、ミームのアルゴリズムをなぞる悟性的思考を成しているかぎり、それはいつまでもどこまでも唯物論的な思考にとどまり、そこから沸々と湧いて出てくる深く強烈な虚無感から逃れるために、一方では依存症へ、他方では NPD へと至る。あるいは、その両方の傾向がいっぺんに出てくる。

依存症と NPD とは、共依存関係を形成するまたとないペアだ。

 

以上、「お金」「現世利益」「ギャンブル」「依存症」「自己愛性パーソナリティ障害」について、私見を述べ、概観した。これらのテーマが他ならぬミームとそのアルゴリズム、そしていまだ意識魂に目覚めていない私たちの悟性魂/心情魂の地図上に、あたかもマイルストーンのように際立っているが故である。

 

さて、何らかの幸運に恵まれて、あなたの中に意識魂が目覚めて、あなた自身の純粋思考を成すことができるようになれば、あなたは悟性魂/心情魂から抜け出すことになる。唯物論的なミームのアルゴリズムの縛りから、自らを開放する。自由になるのだ。これこそが、『自由の哲学』の目指すところ、その指し示す方向性であるに違いない。

 

意識魂が目覚め、そこに純粋思考が現れるとき、人は何かいつもとは違うものを感じる。

多くの場合、意識魂が一度に全面的に覚醒することはない。そして、純粋思考にも濃淡や強弱に類する違いがあり、それに伴って、その現れ方も様々である。

 

この地上に生まれる前、つまり私たちが霊たちの国に在るとき、私たちは皆、純粋思考を成している。そして、その純粋思考を以て、他の霊的存在たちと交流している。そのような霊的過程を経て、私たちのカルマが織られ、更新されてゆく。カルマとは、私たちの高次の自我である。そして、それは同時に純粋思考である。

 

そのカルマであり、純粋思考であるものを、この地上の生を生きる私たちは、意識することは通常ない。だが、私たちの意識が通常及ばない私たち自身の体(たい)には、それが息づいているのだ。イントゥイションとしての純粋思考が。

私たちの体の形状を形成したものこそ、他ならぬイントゥイションとしての純粋思考であり、私たちが自覚しないところでその体を動かし続け、機能させ続けているのも、これなのである。体の形の形成や自律的なその動きを、私たちの低次の自我と同定できる悟性魂/心情魂は追尾できない。私たちのペルソナの関与を超えたところで、イントゥイションとしての純粋思考は働いている。

 

悟性魂/心情魂は、そのアストラル空間に現れる諸々のイメージを、「物(もの)」とみなしている。アストラル空間に現れるイメージの作者は、悟性魂/心情魂自身であり、それは何ら外界のリアルとリアルな結びつきを持たず、その意味において、恣意的であって、その作者の悟性的な思考の在りよう如何で、如何様(いかよう)にも千変万化するという性質をもっている。

つまり、ミームに囚われた悟性魂/心情魂の大きな特徴であるマテリアリズムは、実のところ、まったく空想的なものであるということができるのだ。

そう、それは物ではない、イメージに過ぎないのだ。このねじれた空想のねじれ具合は、悟性魂/心情魂のベクトルからは絶対に見えてこない。なぜなら、極端な言い方をすれば、悟性魂/心情魂のレンズ自体が歪(いびつ)にゆがみ、ねじれているからだ。ミームのアルゴリズムに、そのようなゆがみやねじれがあるということだ。

 

そのようなミームが、私たちのアストラル体の成長に伴って、私たちの魂の内部に入り込み、浸潤し、私たちの悟性魂/心情魂はそのようなミームに酷似したものとして姿を現す。そのようにして、私たちはアーリマン/ルシファーに同調した心性を示すようになる。このような状態は、私たちがアーリマンやルシファーに憑依されているのに等しい。

 

少しばかり、ペンが先走った気がするので、このあたりの事情について、今一度、考察したい。とはいえ、当然のことだが、悟性的思考によっては、謎は解明されない。このあたりの経緯を解明するためには、インスピレーションが要る。純粋思考の一つの特徴であり一側面であるインスピレーションだ。

純粋思考は、思考と感情と意志とが調和的に統合したものであり、通常私たちが成している悟性的思考とは決定的な質的差異がある。

悟性的思考は、ミームのアルゴリズムそのものであり、そのアルゴリズムの原基は、記号論理学の二進法である。いま大流行のAIの基本構造もこれである。始める前から結果が決まっているのだ。複製とコピーの原理で増殖はするが、新しいものは何一つ生み出さない。純粋思考ができず、悟性的思考にとどまる人は、自らの現世利益の追求のために、AI を利用するか、AI に依存するか、あるいはAI を悪用する他の人間に騙されるか、・・・ともかく、ほとんど何も良いことはない。

 

いずれにしても、意識魂と純粋思考に至る過程において、その最終局面において、通常の思考、感情、意志を結びつけていた糸は断ち切られる。ルドルフ・シュタイナーが『いかにして高次の世界を認識するか』の「神秘学の訓練に伴う人格の分裂」のところで特徴づけているように、「それまで思考と感情と意志という三つの基本的な力を結びついていた糸は断たれることに」なるのだ。

 

“このときから思考と感情と意志の器官は、それぞれ自由に、独立して存在するようになります。これらの器官は、もはや器官それ自体のなかに内在する法則をとおして結びつくことはありません。私たちは目覚めた高次の意識をとおして、自分自身でこれらの器官を結びつけなくてはならないのです。

学徒は自分のなかに変化が起こったことに気づきます。すなわち学徒がみずからそうしようとしない限りは、観念と感情が、あるいは感情と意志決定が、ひとりでに結びつくことはなくなります。また学徒は、何らかの衝動をとおして、ある思考をもとにして特定の行動を取るように駆り立てられることもありません。学徒は自分自身のなかに、自発的に衝動を呼び起こさなければならないのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 217,218)

 

さて、もはや明らかだろう。「私たちは目覚めた高次の意識をとおして、自分自身でこれらの器官を結びつけなくてはならない」ということだ。

思考が高次の意識において目覚めたとき、それはインスピレーションとなる。

感情が高次の意識において目覚めれば、それはイマジネーションだ。

高次の意識において、意志はイントゥイションとなる。

そして、イマジネーションとインスピレーションとイントゥイションが調和的に、一つの霊的器官として働くその状態を純粋思考と呼ぶことができる。