ベートーヴェンは、その天才をもって、全人類に向けて語りかけた。その純粋思考は、ドイツの民族霊の縛りを超え出て、人類の自我を志向していた。
その純粋思考の産物である彼の9つの交響曲について、私見を述べる。
交響曲第1番 ハ長調 op. 21
第4楽章の疾走感が抜きん出ている。ゆっくり始まって、小気味よいユーモアを伴いながら主部に入る。
交響曲第2番 ニ長調 op. 36
第1楽章終了間際のクライマックス、金管の音響がぶつかり合い、とんでもない不協和音の緊張感を生み出す。このようなぶつかり合う刺激的な音響は、当時異例中の異例。簡潔で、これ見よがしのところなどない、それでいて最高度に効果的なカタルシス。スクリアビンの交響曲第3番第3楽章の終末部分に、これに似た浄化を感じる。
交響曲第3番 変ホ長調 op. 55 『英雄』
演奏時間約50分に及ぶそれまで存在したことのなかった大交響曲。ナポレオンとフランス革命が、ベートーヴェンにこの曲のインスピレーションをもたらした。自由・平等・友愛のフランス革命の精神に反して、ナポレオンがフランス皇帝となったことにベートーヴェンの怒りは収まらなかった。皇帝になる前の民衆の英雄としてのナポレオンは、ベートーヴェンには、哲学者のヘーゲルがそう見たように、世界精神の具現者として見えていたに違いない。世界精神とは人類の自我と同意である。
交響曲第4番 変ロ長調 op. 60
カルロス・クライバー指揮、バイエルン国立管弦楽団によるライブが世界的に衝撃を与えた。それまでは、第3番や第5番などに比べて地味だと思われてきたが、クライバーの演奏で聴くと、地味どころか、とんでもないエネルギーの発露。その熱量たるや、比類ないことが立証された。第4楽章の見事なまでの圧倒的生命力の横溢を前にして、心をもっていかれない人は、自分の魂の致命的な硬直を疑ったほうがいいだろう。
交響曲第5番 ハ短調 op. 67
「運命はかく扉を叩く」というセンチメンタルな飾り文句は、鑑賞の邪魔になる。「運命」などという大げさな慣用句にまとわりつく押しつけがましい安手のセンチメンタリズムほど、ベ-トーヴェンと無縁のものはないと思う。もちろん、曲はそれを完全に凌駕する巨大なものを現出させる。当時、このような意志的な音響芸術は存在しなかったし、その後にも作曲され得たかどうか・・・。
交響曲第6番 ヘ長調 op. 68 『田園』
“タイトルは、初演時に使用されたヴァイオリンのパート譜にベートーヴェン自身の手によって「シンフォニア・パストレッラ (Sinfonia pastorella) あるいは田舎での生活の思い出。絵画描写というよりも感情の表出」と記されている。”(ウィキペデイア)
第5交響曲の俗称『運命』とは異なり、『田園』はベートーヴェン自身がつけた標題である。彼は、標題というものにまといつきがちな安っぽい感傷主義を極力回避しようとした。なぜなら、ミーム由来のそうしたシナリオと彼の作曲とは何の関係もないことをはっきり自覚していたから。彼がこの曲に与えた標題/シナリオは、当の曲が生まれたその源泉を共有していたから、私たちに違和感を感じさせない。だから、標題はこの曲の一部だととらえるべきである。ベートーヴェンの意味での標題音楽は、総合芸術を志向していると言うこともできるだろう。
・・・森を散策する武満徹の写真を思い浮かべる。
交響曲第7番 イ長調 op. 92
第1楽章は、フランス革命のエコーだ。第2楽章の深さは比類ない。第4楽章の終わり近く、低弦の圧力がすごい。金管の咆哮も並外れている。ある意味、一種のトランスミュージックだ。ルシファーを超え、アーリマンをも凌駕する。
交響曲第8番 ヘ長調 op. 93
ソリッドでぎゅっとつまっている。第4楽章におけるティンパニの活躍は並大抵のものではない。第2楽章は、メトロノームのカリカチュアである。メトロノームは情念の過多に由来するテンポの恣意性を防ぐが、アーリマン的無機的な機械性を生み出すという大きな危険性をはらむ。生命感情はそこでは死ぬのである。
交響曲第9番 ニ短調 op. 125
第1楽章は、ルシファー由来の情念の嵐に翻弄される魂。第2楽章は、アーリマンの死の踊り。第3楽章は、自然の中にたたずむ魂。一種の瞑想。第1楽章の情念の嵐は、その後、ロマン派の作曲家たちによって、多種多様に表出され、マーラーで頂点に達する。そして、ほどなくニヒリズムへと退行してゆく。これと並行して、アーリマンの死の舞踏がつかず離れず・・・。
さて、ここまでは一人の人間の魂の在り様を描く、交響曲第6番『田園』の意味での標題音楽だ。あくまでも、一人の人間、孤独な魂である。
第4楽章、合唱が始まる前のバリトン独唱によるレチタティーヴォ"O Freunde, nicht diese Töne!"(「おお友よ、このような音ではない!」)によって、それまでの3楽章で表出された「孤独な人間」を乗り越える意志が示される。シラーの原詩『歓喜に寄す』をもとにベートーヴェン自身が編んだテキストをソロと合唱が歌う。共感/喜びが人々を結びつけるというテーマである。
“歓喜よ、神々の麗しき霊感よ 天上の楽園の乙女よ 我々は火のように酔いしれて 崇高な汝(歓喜)の聖所に入る
汝が魔力は再び結び合わせる 時流が強く切り離したものを すべての人々は兄弟となる”
ここでは、「歓喜」が「神々の麗しき霊感」と呼びかけられている。「天上の楽園の乙女」とも。「神々の麗しき霊感」を「聖霊」、「天上の楽園の乙女」はロゴスを受胎する「アニマ」。そして、「ロゴス」は「聖霊」と同意である。
だから、シラーやベートーヴェンがこれに同意するか否かは誰にもわからないとはいえ、ここでは聖霊降臨の喜びが含意されていると私は考える。
「汝が魔力は再び結び合わせる 時流が強く切り離したものを」と、シラーとともにベートーヴェンは語る。「時流が強く切り離したもの」とは、フランス革命をはじめとする時代の動向によって、旧来の社会システムが崩壊したことによって、否応なく人々の間に新たな分断が生まれたことを示す。「汝が魔力は再び結び合わせる」は、人々が聖霊降臨の喜びによって、新たなコミュニオンを志向するようになると歌う。
そう、それは「魔術/魔力 Zauber」だ。ルシファー由来のエゴイズムとアーリマンから来るマテリアリズムの機械性とは、人々を孤立させ、分断し、敵対させる。誰もが孤独をかこって、唯物論のニヒリズムに至る ~「人間は物に過ぎない」と。ミームに囚われているかぎり、この闇の迷宮から抜け出すことはできない。情念の嵐に翻弄され、アーリマンが死の贈り物をしてくる ~「おまえは物に過ぎない」と。
そう、それは「魔術」だ。さて、・・・だから、「わたしは物ではない」と言えなければならないのだ。自分のことを物だと考えてしまえば、他の人間も物だということになってしまう。もし、そのように考えている自分を自覚できないとすれば、事態はもっと深刻である。
わたしが物ではないとしたら、わたしは一体何ものなのか?
この問いの答えを見出すことこそ、人間の使命に他ならないのだ。ルシファーとアーリマンは、人間が答えを見つけるのを妨害する。エゴイズムとマテリアリズムの網の目を張りめぐらせて、人間をその牢獄に縛りつける。
ミームの中に囚われているかぎり、答えは見つからない。
ベートーヴェンは、フランス革命が旧来の社会システムを崩壊させるのを見た。民衆が新たな価値に目覚め、ミームを突破するのを見た。そして、ナポレオンに世界精神の具現者を見た。世界精神とは、言葉を換えれば、人類の自我である。つまり、これは聖霊降臨なのだ。意識魂の誕生を祝う祝祭である。