x-y-z の座標軸で記述可能なこの三次元空間のどこだか一点に私がいるとして、この一点は視点のベクトル次第で、別の場所に成り得る。つまり、この場所の意味合いは流動的だから、この場所にいつまでもとどまっていることはできない。私やあなたの意識次第だ。とりあえず、「意識」を「魂」と呼び変えてもいい。
私たちの悟性魂/心情魂は、ミームの所産だ。
とりあえず、「ミーム」を古めかしい「掟(おきて)/律法」としておこう。
“・・・律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。・・・”(「ヨハネによる福音書」第1章)
モーセは神ではない。イスラエルの民族魂の使者である。だから、民族の掟のとしてのミームは、その使者であるモーセによって告げ知らされた。イスラエルの民の魂に打ち込まれたのだ。そのようにして、ミームの産物としてのイスラエルの民の悟性魂/心情魂が形成された。
同様の経緯が、他の民族や部族においても、観察されるはずである。いやしくも民族とか部族とか呼ばれるいかなる人間のグループも、その民族なり部族なりの民族霊の支配下にある。彼らはいずれにしてもその魂の内に彼らの民族を統べる民族霊によってもたらされた特有のミームを有しており、その意味において、彼らは彼らの民族霊の支配下に置かれているのだ。民族霊は民族魂と同意である。
ミームは、民族魂の使者によってその所属する民族の民にもたらされ、その民族に属する一人ひとりの人間の悟性魂/心情魂を形成する。だから、彼らの魂はミームに依存している。自由はないのだ。
掟を破れば、追放され、命を落とす。頼りにしていたミームから疎外されるのだから、生活できなくなる。そのような状況で生き抜くことができるのは、・・・
さて、「めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。」とある。
「めぐみとまこと」とは、何を意味するのだろう? これを単に言葉をもって定義することには無理がある。なぜなら、これはミームと悟性魂/心情魂を超えた何ものかだから。端的に言えば、それは真理の霊、つまり聖霊に他ならない。もちろん、これは定義ではない。そうではなく、これらの言葉はいわゆる根源語である。直観の言葉なのだ。
すでにキリスト・イエスはその生前から、弟子たちとの対話を通して、純粋思考を成していた。聖霊の本質は、純粋思考である。純粋思考の本質は霊以外の何ものでもない。
そればかりか、キリスト・イエスは次のように明言した。
“「・・・わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。・・・わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。・・・」”(「ヨハネによる福音書」第15章、第16章)
「真理の御霊」とは聖霊のこと。聖霊の本質はロゴスである。そして、人間の成し得る純粋思考というものは、このロゴスすなわち聖霊と同質の何かを有しているのだ。誤解を招くことを承知の上で言うなら、「文法」もしくは「作法」が同じなのである。
キリスト存在は、ロゴスであり、その意味において、聖霊でもある。ロゴス/聖霊は究極の純粋思考である。つまり、キリストとは自我の神に他ならない。その自我は、もちろんペルソナとは違う。人類自我とでも呼ぶべき何ものかである。そのことを明かすために、キリストはナザレのイエスに受肉して、キリスト・イエスとして地上を生き、ゴルゴタの秘跡を成し遂げた。
キリスト・イエス自身が何度も語っているように、「それは地上の要件ではない」。
“「・・・もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。・・・」”(「ヨハネによる福音書」第15章)
“さて、ピラトはまた官邸にはいり、イエスを呼び出して言った、「あなたは、ユダヤ人の王であるか」。イエスは答えられた、「あなたがそう言うのは、自分の考えからか、それともほかの人々が、わたしのことをあなたにそう言ったのか」。ピラトは答えた、「わたしはユダヤ人なのか。あなたの同族や祭司長たちが、あなたをわたしに引き渡したのだ。あなたは、いったい、何をしにきたのか」。イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。ピラトはイエスに言った、「真理とは何か」。・・・”(「ヨハネによる福音書」第18章)
ピラトはユダヤ人ではない。当時、ユダヤを支配していたローマの総督である。だから、ユダヤ民族の民族霊に由来するユダヤミームの外にいる。ローマの民族霊のミームによって魂を支配されている存在だ。
イエスの地上的な出自はユダヤにあるが、イエス自身が語るように、「わたしの国はこの世のものではない」。このことがピラトには理解できない。そして、イエスがユダヤミームに従わないが故に、彼は故郷から排斥されているのだ。彼は「真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。」と率直に語っている。まさに、これがすべてではないか。
「真理とは何か?」と、ピラトはイエスに問うている。
もちろん、それに対する答えは、ユダヤミームからもローマミームからも出てくることはない。
「だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」とイエスは語る。
そもそも純粋思考という霊的行為には、その質感の濃淡や純粋さの違いから来る段階がある。例えば、キリスト・イエスの成す純粋思考は最高度だが、彼と対話できるとはいえ弟子たちの理解度には程度の違いがあり、キリスト・イエスのレベルにまで達する弟子はいなかったはずだ。だから、キリスト・イエスは弟子たちに、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。」と語るのである。また、ベートーヴェンの成し得た音楽的な純粋思考の強靭さを同レベルで持ち合わせている作曲家が、当時もその後もそんなにいたとも思えない。
何らかの予感のようなレベルで「真理につく」ことはでき、それに耳を澄ますこと、傾聴することはできる。だから、キリスト・イエスはそのようなベクトルにおいて弟子たちに語りかけたし、ベートーヴェンは作曲し続けたのだ。
しかし、そうしたいわばピュアな霊的営みの障害となるのが、ミームである。
キリスト・イエスは弟子たちに語る。
「あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである」と。
「あなたがた」、キリスト・イエスの弟子は、「この世のものではない」、つまり、弟子たちは掟としてのミームの外にいる。キリスト・イエスが弟子たちとの対話において成した純粋思考によって、師は弟子たちの意識を高めたのだ。弟子たちにはキリスト・イエスの純粋思考を受け入れることのできる純粋な意識性があった。彼らの魂がキリスト・イエスの魂と共振したのだ。その可能性をキリスト・イエスは弟子たちに見ていたのである。
何らかの民族霊に囚われている魂に、それはできない。ミームに囚われている魂に、それはできないのだ。
そして、キリスト・イエスはゴルゴタの秘跡を成し遂げることによって、今度は全人類に向けて、そのことを成す。