ルシファー、アーリマン、そしてアスラ。これらの名前は、神秘文字/象徴と呼ばれ、通常の言語で定義することができない存在/事柄を指し示すのに用いられる。
定義という営み自体、悟性魂に由来する。哲学や自然科学の術語を含む通常の言葉によって、ものごとを説明し、公式化しようとするのだ。悟性魂が見出すものは、ミームの産物であり、その意味において、常にフィクションであり、仮象である。そのような仮象、無常なるものを言葉で固定化したところで何の意味があるだろう。無常なるものを権威化し、崇め奉って、自らを縛り、他者の自由を奪うのか。
定義が心情魂の方へそのベクトルを向けてくると、それは迷信になる。定義はアーリマン性が強く、迷信はルシファー性が強い。人間の悟性魂/心情魂が、ルシファーとアーリマンの跋扈(ばっこ)する舞台だ。
ルシファー、アーリマン、そしてアスラはフィクションでも仮象でもない。彼らは霊的な存在であって、人間がミームを頼りに作り出すフィクションとは比べようがないほど、根源的でリアルである。彼らが私たちに存在レベルで働きかけるが故に、私たちの地上の生活の幸不幸が浮き沈みする。
忘れないうちに、彼らの性格と特徴を走り書きしておこう。
ルシファー ~ 情念とエゴイズム。虚栄。虚飾。
地上的なものと結びつく感情。ルシファーがそれを煽り、増幅し、情念の渦巻きとなる。偽りの自我は、その暴風雨に振り回される。
アーリマン ~ 死神。重力。鉱物界の王。
思考が鉱物界への志向性を強め、無機的に、機械的になる。思考のアーリマン化。人は霊を見失い、魂にアーリマンから来る死が近づく。
アスラ ~ 獣(けもの)。
悟性魂 /心情魂が硬化し、ミームのアルゴリズムに囚われ、意識魂/霊への志向性を失うと、人間の中の獣が現れる。
意識魂が目覚めることによって、本来の自我が自らの意志を行使できる状態が生まれなければ、人間の中の獣が代わりに現れる。太陽悪魔、アンチ・キリストとしてのソラト。
“・・・アスラの霊たちは、かれらが捉えた人間の自我が - アスラたちは、人間の最も深い内的なもの、つまり自我と一体になった意識魂を捉えるのです ー 地球の感覚性と一体になるように作用するからです。そうなると人間の自我の一部が、少しずつもぎ取られていくことになります。そして、「アスラの霊たちがどれだけ意識魂の中にしっかりと入り込んでいるか」という度合いに応じて、人間は地球上に自らの存在のいくつかの部分をあとに残さなくてはならなくなるのです。一度アスラの力のとりこになったものは、もはや取り返す術もなく、そのまま失われてしまうことでしょう。「すべての人間がアスラの手中に陥る必要がある」というわけではありませんが、人間の精神のある部分がアスラの力によって切り取られることになるでしょう。私たちの時代においては、「いまを支配している単に感覚的なものの中で生き、あらゆる現実の霊的な存在や霊的な世界を忘却する精神」と呼ぶことができるものの中に、アスラの力が予兆となって現れています。つまり私たちは、「現代では、アスラの力が人間を誘惑する方法は、ますます理論的なものになっている」と言うことができるわけです。現在、アスラの力はしばしば、「人間の自我とは、単に物質界が生み出したものにすぎない」ということを人間に信じ込ませようとしています。アスラの力は、ある種の理論的な唯物論へと人間を誘惑しようとしているのです。そしてアスラの力は、さらに長い時間の経過とともに - その予兆は、現在ますます地上へと降りてきている感覚性の荒廃した情熱に現れています - 、霊的な存在や霊的な力に対して人間の目を曇らせていくことになるでしょう。すなわち、人間は霊的な世界について何も知ろうとしないようになるのです。人間は、「人間の最高の道徳的な理念とは、動物的な衝動がより高いレベルで形成されたものにすぎない」ということを、ますます教えるようになるでしょう。また人間は、「人間の思考とは、動物ですら備えているものが変化したものにすぎない」ということを、そして、「単に人間の姿が動物に類似しているだけではなく、人間のすべての本質は動物に派生する」ということを教えるようになるでしょう。それだけではありません。人間はこのような見解を実行に移し、そのように生きるようになるのです。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『悪の秘儀 アーリマンとルシファー』松浦賢訳 イザラ書房 p. 71,72)
あなたが自らの霊性に気づくことができなければ、「わたし」という直観が霊の顕現であり、その意味において、あなたが「わたしは霊である」と言明できなければ、どうなるか?
これは、文献学の問題ではないし、自然科学の問題でもない。百歩譲って、哲学や宗教の問題ではあり得るということはできるかもしれないとはいえ、現実問題として、それはより深く根源的な問いなのだ。「自我と一体になった意識魂」の問題なのだ。それは、偽りの自我ではもはやない。意識魂であって、もはや悟性魂/心情魂ではないのだから。
アスラは、この部分、すなわち「人間の最も深い内的なもの」に介入してくるというわけだ。
「現在、アスラの力はしばしば、『人間の自我とは、単に物質界が生み出したものにすぎない』ということを人間に信じ込ませようとしています」とシュタイナーが語るように、昨今の倒錯した自然科学信仰というミーム/迷信の猛威のもとでは、ほとんど誰もが、その思考の仕方のどこかここかに、この自然科学ミームを忍ばせているだけではなく、そのことに無自覚なのだ。そして「このような見解を実行に移し、そのように生きるように」なっている。「感覚性の荒廃した情熱」。
このようなベクトル、アスラのベクトルに対抗するためには、ミームと自らの魂の現実を直視するというところから始める以外ない。ミームとそれに囚われた悟性魂/心情魂の在り様を、いかなる予断も臆断もなしに観察するしかない。
このことを成そうと意志し、そのために純粋思考を成そうとするところから、意識魂が始まる。そのようにして意識魂が始まれば、偽りの自我ではないもの、本来の意志のようなもの、やがては本来の自我と言えるような何かに成り得るものが、徐々に姿を現す。