誰かある人が歩いている。見知らぬ人だ。
私には目もくれず、前を見て歩いていく。
その人がどこに行こうとしているのか、私は知らない。
とはいえ、その人がどこかに向かっているのは確かだろう。
そのどこかに、その人はなぜ行こうとしているのか?
目的があって、その目的地に向かう。
そのために身支度をし、家を出る。
通常、その人が自分の目的を、行く途中で忘れることはない。いわゆる短期記憶だ。
それにしても、そのように短期記憶に書き込まれたその人の目的なるものは、いったいどこから来たのだろう?
その目的をその人は自分で設定したと思っているかもしれないが、実際はミームから来る。
その人の悟性魂/心情魂の空間は、ほぼミーム空間と重なっており、通常、その人の魂がミームを抜け出ることはない。
ミームから離れることは、生きる拠り所を失うに等しい。
だから、その人の意志に自由はなく、ミームに支配されている/ミームに依存しているのだ。
ミームはミーム自身を保持/維持するために、個々の人間を使う。
一人ひとりの人間の悟性魂/心情魂はミームと同化しており、複数の人間がほぼ共通したミームの支配下にある。
ミームのこうした社会的構造ゆえに、人々は意思疎通できる。ミームが提供する共通の言語、共通の文法、共通の社会規範、共通の科学 etc. を媒介にして、人々はつながるのだ。そして、ミームはミーム自身の安定を維持する。
ミームのこうしたはたらきによって、人間の極めて重要な部分が蔑ろ(ないがしろ)にされ、搾取され、疎外される。
ミームに依存することで、人間は自分で考える必要がなくなる。常に受け身でいればいい。ミームがすべて指し示してくれる。喜怒哀楽の感情さえ全部受け売りだ。知情意のすべてにわたる強力なアルゴリズムが支配しているのだ。
こうしたミーム空間において人気者になるためには、ただミームのアルゴリズムをなぞっているだけではだめだ。なぞっているだけではないように見える要素が少しだけ必要だ。ただし、大きく逸脱してはならない。悪趣味に感じられるからだ。
ポイントは、文脈をほんの少しだけずらすということ。これは、いわゆるポスト・モダンの方程式だが、ずらしすぎると悪趣味になるので要注意だ。
つまり、今や時代の進み具合から、ただ唯々諾々とミームのアルゴリズムに従っているだけではだめになった。そういう時代になったのだ。
古来のミームが現代に至るまで、その姿を変えなかったわけではない。
また、すでに構造主義がその最終的な結論に至ったように、地域ごとに、部族ごとに、民族ごとに、国ごとに、人種ごとに、etc. ミームの色合いは異なる。そして、どのミームが他より優れているかなど議論すること自体虚しい。そのような比較の基準というのが、徹底的に恣意的であることは、すでに自明である。いずれの物差しも結局のところ迷信だ。そのような迷信に狂った人たちが世界を地獄に変えてきたのである。
ともあれ、ミームは人間の魂を悟性魂/心情魂に成すことにより、大きな安定を獲得し、いわば完成に至ったのだ。
この完成へと至る道行きを、私たちは私たち自身の思想の変遷を包含する歴史の中に見ることができる(はずだ)。とはいえ、実のところ、そのような包括的な人類史(誌)はいまだかつて書かれてはおらず、これからも書かれることはないだろう。
なぜなら、そのように包括的な記述を成すためには、ミームの外に出る必要があるからだ。いまだかつてそれを成した人間はいない(と言っておこう)。疑似的にもそのような包括性を獲得したと主張する人物が現れたとしたら、最大限の注意が必要だ。そのような人物は何らかの迷信に狂っている/囚われている可能性が高いから。現代という時代は、いわば詐欺師たち/ペテン師たちの時代なのだ。彼らは、ミームのアルゴリズムを巧妙にずらすことにより力を得ようとする。他者を操作する力だ。
ミームはいくつものアルゴリズムが、ほとんどカオスのように組み合わさって、いくつもの(無数の)文脈イメージの集合体としての全体性を有している。
ミーム空間の内部で、文脈を少しずらしたり、今までには想定されていなかった文脈どおしの結びつきを作ったり、etc. そうした人工的な細工を施すことにより、イメージの変容が起こったり、雰囲気が変化したり、極端な場合には意味や価値の逆転が起こったりする。あくまでも、ミームの内部におけるいわば見せかけの変化だ。
こうした細工に長けた人間たちが、悪意をもって、他者を操作し、自分の利益のために利用する。
ミームの側からすれば、そのようなことがあったとしても、痛くも痒くもない。ミームとしての全体性に破綻が生じなければ問題はないのである。ミームにとっては、この全体性こそが命なのだ。
そして、人間が何らかのミームを拠り所とするとき、他ならぬそのミームの有するこの全体性を頼りにしているのである。そのように一つの全体として成り立つというミームの在り方に、人間は人間を超えたもの、神的なものを感じるのだ。
そして、これが悟性魂/心情魂の行き着くところ、その完成である。
ミームは、人間の悟性魂/心情魂と共に、自らを完成させる。人間の悟性魂/心情魂はミームと一体化することにより、同様の完成に至る。もちろん、きわめて危うい一体化ではある。しかし、いずれにしても、これは一里塚。通らねばならぬ道だ。
ミームとの一体化と共に、人間の魂にはたらく三つの力、思考・感情・意志がいわば予定調和的に結びつく。それこそ破綻なく。
しかし、ミームが完成へと向かうこの過程において、人間の内に潜む反ミーム的なるものが脇へ追いやられるのだ。
ペルソナに対して、それをシャドーと呼んでもいいが、実際にはそのような単純な二分法で事柄のすべてを汲み取ることはできない。便宜的にそう呼んでおけば、確かに叙述は楽にはなりそうだが。
例えば、クンダリニーは反ミーム的で、ミームの調和的なイメージの空間から排除された。クンダリニーはエーテル界に根差し、その強大な生命力が生のまま人体に影響を及ぼすことになれば、それは破壊的な作用を及ぼす。
ミームのイメージ空間から排除されたとは言っても、何らかのきっかけでその生の姿を現すのだ。そうなると、ミームにはなす術がない。ミームによって調和的に結びつけられた人間の思考・感情・意志はもはや機能できない。
ミームの調和的な全体性にほころびが生じる。当然、個々の人間においては、ほころびどころの騒ぎではなくなる。カタストローフだ。
ミームに生じたほころびは少しずつ大きくなり、いずれは修復できないまでになる。
人間の魂においては、思考・感情・意志が分裂し、ミームとのつながりを喪失する。
たしかにミームは人間によって造られたものではないが、人間なしに存在することもできないのだ。ミームはいわば人間の魂に寄生し、人間の魂と共生関係にあると言っていいからだ。
たしかにミームの全体性は、個々の人間の魂の個別性/個体性とは比較にならないほど巨大である。だから人間はミームをあたかも神ででもあるかのように錯覚する。
しかし時代の霊は、時/潮目が変わることを告げているのである。新しい時代が始まろうとしている。