ミームのからくり | 大分アントロポゾフィー研究会

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思考・感情・意志のミーム的結びつきが解かれることにより、感受と認識のフィルターとしてはたらいていたミーム自体が解消される。

それとともに、感受と認識のあり方が更新される。

 

ただし、ミームの解消は、準備の整っていない魂にとっては、破壊的に作用する。狂気が噴出する。

 

・・・準備が整えば、魂は新しい感受と認識の主体となり、あなたの世界は一新する。

そのとき、あなたの魂は意識魂となり、霊の夜明け/聖霊降臨と呼ぶべき更新された時空を体験する。そのようにしてあなたは、境域を、生と死の深淵を超える。

 

エゴイズム/ルシファーとマテリアリズム/アーリマンの桎梏(しっこく)が、魂の準備を妨げる最大の魔物である。

ミームはこれらを程よくブレンドし、通常の生活において、当たり障りのないものにしておくための一種のタガのようなもの。

タガであると同時に、エゴイズムとマテリアリズムはミームの道を通って増殖する。だから、ミームはタガであり、同時に温床なのだ。

 

悟性魂/心情魂としてあなたは、ミームの道を行く。

ミームはエゴイズムとマテリアリズムの温床だが、その意味において、あなたにうってつけの試練の場だ。

ミームの道行きで醸成されたあなたのエゴイズムとマテリアリズムとが、ミームのイメージ空間からはね返ってくる。エゴイスティックでマテリアリスティックなあなたの姿を観察する方便として、ミームのイメージ空間にまさるものはない。

 

そのようにして、あなたは自らの悪魔的な姿に対峙しなければならない。

この試練を回避することは、時代の霊の要請を拒むことにつながる。時代の霊はあなたを置き去りにする。

 

あなたはペルソナとシャドーとがゼロサムゲームの死闘を演じているそのエゴイズムの空間。今生(こんじょう)の悟性魂/心情魂である。低次の自我あるいは偽りの自我と呼んでもいい。

今生の地上生をあなたはそのように生きる。低次の自我/偽りの自我として。

 

低次の自我/偽りの自我を支えているミームが消えるとき、あなたは境域/生と死の深淵の淵に立つ。

死の恐怖に打ち克つ頼りになるのは、人類の記憶だ。あなたがその人類の記憶を想起できるかにすべてがかかっている。

それを想起できるか否かは、それまでの人生であなたがいかに準備してきたかによる。つまり、ミーム空間にありながら、エゴイズムとマテリアリズムを克服すること。その試練を乗り越えたかどうかが問われるのだ。

 

・・・もう一度、ミームのイメージ空間に目を向けよう。

そこはアストラル空間であり、種々様々のイメージで充満している。そこは私たちの魂の空間でもある。悟性魂/心情魂の空間だ。

その空間において、どんなイメージを、どのように感得するか、それはあなたの低次の自我/偽りの自我次第。なぜなら、あなたがそこに見出すイメージは、すべてあなたの低次の自我/偽りの自我の反映だから。

だからあなたの低次の自我が我を張ったり、欲に目が眩んだり、過剰に自己防衛的になったりすれば、そうしたエゴイズムがミームのイメージ空間からはね返ってくる。あなたはそうした種類の、そうした色合いのイメージを見つけ出し、得々とし、ほくそ笑み、ミームの増殖に加勢する。ミームはあなたの魂の中で増殖するのだ。

 

こうした成り行きのすべてを、端的に主観と呼ぶことができる。

 

ミーム空間に漂い、充満するイメージは、必ずしもあなたが生み出したのではないし、その物的(ものてき)なありよう自体が、この地上の世界、すなわち鉱物界/植物界/動物界/人間界に由来することを考えると、むしろあなたはこうしたイメージに対して受け身の立ち位置にある。

 

あなたが気づいたときには、すでに何らかのイメージが現前している。だから、あなたはあなたがそれに気づく前にもそれがそこにあったと考える。そのように考えれば、あなたはそのイメージの受け手にとどまり続ける。そして、それらのイメージは確固として、いわば客観性のようなものさえ備えているかに思われる。

 

だが、あなたのそうした予断に反して、あなたとイメージとの関係はそのようなものではない。

あなたが気づくこと、それがすべてだ。あなたが気づく「それ/Es」は謎にとどまる。

この成り行きを主観と呼ぶ。悟性魂/心情魂の空間だ。