ペルソナは仮象であり、一種のイメージだから、ペルソナにおいてリアルな死の体験はあり得ない。
元々、ペルソナに生命はないのだ。
ペルソナにおける死のようなものを想定するとすれば、それは迷信であって、葬式仏教のようなものと結びついたイメージでしかない。
そうは言っても、次のような文脈はある。
あなたがシャドーを切ることで自らをペルソナと成す時、あなたは痛みを感じ、その傷口はいつまでも疼き続ける。
このようなあなたの行為とその結果生じてくるネガティブな感情を、自己疎外と呼び、不全感と呼ぶ。
この自己疎外感と不全感をペルソナは抱き続ける。不快で始末に置けない感情だ。この感情が原因で、種々の依存症が出て来る。
ペルソナは常に一種の病的な状態なのだ。
ペルソナが消える時、この病は癒える。
ペルソナには生命がないから、ペルソナはそれ自体すでに死ではある。あなたはシャドーを切ったが、むしろシャドーの方が生きているのだ。なぜなら、あなたは生々しいもの、毒をもったもの、危険なもの、そうしたミームにとってネガティブなもの、ミームの安定を脅かすものをシャドーに詰め込んで、放逐したから。それは本来の祝祭であり、祭りであり、荒ぶる神である。そうしたものは、古来、恐れられ、通常の生活からは隔離され、見えない所に隠された。
例えば、古代ギリシャの密儀において、それはディオニュソスであった。
ソクラテスに訪れたダイモニオンもそのような神であった。
確かに、荒ぶる神の前では、人間の生命が蔑ろ(ないがしろ)にされる瞬間がある。
荒ぶる神の前で、ペルソナは無力だ。いや、あなたが無力なのだ。そうだ。人間が無力なのだ。
それに恐れをなし、あなたはシャドーを切ったのだ。
だが、切ったと思いたいのはあなただけ。切って葬り去れるものではないことは、あなた自身がよく分かっている。
ミームのアルゴリズムに馴染まないものすべてを、あなたはシャドーとして排除した。だが、排除とは何だろう?
一種の屈折した衛生術のようなものか。
あなたがいわゆる学歴主義とか学力信仰の類に入れ込んでいれば、学歴詐称や子どもにとって百害あって一利なしの勉強法にのめりこむ可能性がある。相手の学歴で結婚相手を選ぼうとする。
宗教的な迷信や多種多様の自己実現プログラムに邁進して、自己満足に浸ろうとする。どこまで行っても自己欺瞞だ。
何かにマニアックにのめり込み、家族の困惑も顧みず、その特殊な所有欲を満たそうとする。
本当はもっと例示すべきだが、今の私にその体力はなさそうだ。
そもそも現代に蔓延するこうした依存症的な行動を俯瞰するマップを作成すること自体、不可能に違いないし、そのような俯瞰図を作るよりも、またすべての事例を網羅するよりも、要するにこうしたエゴイズムの力学を記述することこそ、何よりも優先すべき課題である。
エゴイズムという悟性魂/心情魂に特徴的な一種の病のダイナミズムを、誰もまだ解明していない(と私は思う)。
あなたはミームによってもたらされるあなたの魂の安定を維持するために、また、思考・感情・意志の調和的な結びつきが保たれて、ミームのアルゴリズムの道から逸れないように奮闘する。そのように立ち居振る舞うことがペルソナの本質である。
ミームから逸脱するものは、すべてシャドーだ。シャドーの正体を暴いた者は、誰もいない(と私は思う)。
さて、シャドーがディオニュソスであり、その性格において祝祭的であることを、人間の本来の自我は知っている。偽りの自我としてのペルソナは、それに気づかないふりをする。
シャドーがとんでもないエネルギーをもち、それを直接食らったら、人間はその衝撃力に耐えられないことを、本来の自我もペルソナも実はよく分かっているのだが、それに対応/対処する術をまだもってはいない。
ヒンドゥーの流れにおいて、それはクンダリニーとしてイメージ化された。その流れから派生して、それは龍となり、強大な生命力と破壊力の権化のように考えられた。
クンダリニーは一人ひとりの人間の体内に潜んでおり、何らかの契機と共に、その作用が生身(なまみ)の人間の心身に及ぶ。準備ができていない人間にとって、それは通常の生活ができなくなることを意味する。
つまり、シャドーが生(なま)のまま表に出てくれば、通常の生活が破壊されるということだ。
なぜなら、クンダリニー/ドラゴンと同定されるシャドーは、人間に生命をもたらすのみならず、破壊の神でもあるから。過剰な生命エネルギーの圧力に通常の人間は耐えられない。
もちろん、現代の自然科学の枠組みにおいて、生命はカテゴリーエラーである。生命についてまともに説明/記述できる人は、今のところ一人もいないのである(と私は断言したい)。
一方、芸術家は自らの魂にシャドー由来の超人間的な力が顕現するのを感じる。
当然のことながら、その力は、ミームにとってはこの上なく危険である。この危険な力を抑え込むために、人間はこのかた、他ならぬミームに頼ってきたのだ。
芸術家は、ミームではなくシャドーを選ぶ。
だが、個々の芸術家がシャドーに適切に対応/対処する準備ができているかどうかは、また別の問題である。準備不足のために、通常の生活ができなくなり、現世的に破滅した無数の芸術家たちの物語を私たちは知っている。多くの場合、芸術家たちは我知らず、シャドーの圧力に追い立てられるように生きる。
芸術家は宿命的に境域/生と死の深淵に至り、そこから創造のエネルギーを得ているのだ。