例えば、私はずっと長いことその曲を聴こうとしなかった。
なぜなら、その曲は聴く価値がないと思っていたから。私には必要のないものだと決めつけていた。
でも、なぜそんなふうに考えてきたのだろう?一度も聴いたことがないのに、そんなふうに思い込んでいた。
だれかが私に「その曲は最低だ」とつぶやき、何かの雑誌に「その曲は月並みだ」と書かれ、・・・私は無批判にそれを鵜呑みにする。
そのようにして私とその曲の関係は断たれた。
・・・実のところ、私と他者との関係は、これと似たり寄ったりなのだ。
多くの場合、私はまったく恣意的でしかない誰かの主観をほとんど無批判に受け入れて、それを拠り所に異質な他者を切る。断罪して自分から遠ざける。
誰かの主観とは何だろう?
それはもともと私の中にあった予断のようなもの。
つまり、私が何かの巡り合わせで、持ち合わせていた魂の傾向が、ちょっとした刺激で表に出てきたのだ。
刺激はどのようなものであってもかまわない。
彼は本当は「それはよくない」などとは言っていないかもしれない。
しかし私には、彼が「それはよくない」と言ったように聞こえる。
こんなことは日常茶飯だ。
私が彼に「そう言ったよね?」と尋ねると、彼は「何のことだい?」などと答える。要するに彼が本当にそう言ったのか、はたまた言わなかったのかは、結局分からないのだ。
私に抜きがたい予断がある以上、何一つ確かなことは見えてこないということ。これだけは確かだ。
これこそ、主観というものの特徴であり、ミームのアルゴリズムに囚われた悟性魂/心情魂が主観を生み出しているということなのである。
予断はその予断に対応したものごとを、私に見せてくれる。そして、それにそぐわないものごとは、間違いなく見えなくなる。
これが主観の魔術的空間の特徴である。
主観の空間において、「わたし」を主張するのが、ペルソナである。
実際のところ、ペルソナには実体がない。なぜなら、ペルソナは一種の主観だから。恣意的な仮象だ。
もちろん、ペルソナはそんなことは認めない。ペルソナは、主観の空間において、自らを神であるかのように位置づける。
ペルソナは、「わたし」は「神」だと考えようとしているのである。
ただし、ペルソナは神ではなく、またペルソナ自身の根拠も実のところ危ういことを感じるが故に、ペルソナはいまだ「わたしは神だ」と断言できない。
なぜペルソナの根拠は危ういのか?
それは、ペルソナが偽りの自我だからである。
本来の自我は、霊に由来するが、偽りの自我としてのペルソナは、ミームから生まれるのだ。
そして、ミームこそ予断の集合体であり、そこから出来上がるアルゴリズムが、私たちの悟性魂/心情魂の正体なのだ。
確かに、私たちの魂はそこまで進化を遂げたという言い方はできる。
つまり、私たちはミームに従って、思考し、感情を抱き、意志するまでに進化したのだ。ミームに従っている限り、私たちの思考・感情・意志は調和的に結びついている。その調和に破綻はない。
だが、私たちはそのようなミーム的調和に囚われ、他者に対して閉じたのである。主観の魔術的空間に引きこもったのだ。
この空間においては、一見何もかもペルソナの思うがままであるかに見えるが、実際にはそうではない。
なぜなら、ペルソナはミームの調和を維持するために、シャドーを切り、排除したからだ。要するに、自分の一部を切断して、捨てたということだ。
ところが、捨てたからといって無くなるわけではない。捨てられたシャドーは、ミームのどこか片隅に鳴りを潜めて(なりをひそめて)いる。あなたの魂はいつもどこかここか疼いている。シャドーの潜在、あるいは現前故に。
あなたはそれを知っていて知らないふりをするが、見て見ぬふりをするが、無視し続けることはできない。それが隠れていることは分かっているのだから。
この自己疎外感と不全感はけっして止まない。
そして、あなたはシャドーではないものによって、この不全感を消し去ろうとする。
さて、果たしてそのようなシャドーではないものなど、ミームの主観的魔術空間に見つかるだろうか?
そこが主観の空間である以上、シャドー以外のものは見つからない。
主観的外界に充満しているものは、シャドーが姿を変えたイメージ/仮象だ。それらイメージをあなたは追う。元はと言えば、あなたの中にあったもの。あなたの一部であったもの。
それが嫌で排除したはずのシャドーが、今度は追い求められる対象となる。
あなたの魂の駆動力である共感と反感の作用によって、好ましいものが汚らわしいものに変わり、汚らわしいものが好ましいものに変わる。ところが、あなたはただミームのアルゴリズムに従ってそれを成すので、なぜそのようなことが起こるのか自覚できない。まさに魔術である。
あなたは自らのミーム的主観空間に中で、予断に満ち満ちたゲームを続ける。
あなたは偽りの自我であるペルソナを演じ、偽りの外なる主観宇宙と対峙して、シャドー由来の恣意的なイメージたちを追いかける。あるいはそこから逃げ回る。
そうだ。人間はこのような空虚なエゴゲームに興じるまでには進化したのだ。
それが空虚なのは、それが一人相撲だからだ。本来の他者は現れないのだ。
他者という霊的存在が顕現する契機は・・・あなたが偽りに満ちたあなたの主観の魔術的イメージ空間を後にする時である。