“はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。”(「創世記」第1章)
「天」とは霊界、「地」は地上の世界である。
「形なく」「むなしい」「地」を形あるものにすることが、人間の使命だ。
「淵」とは生と死の深淵。いまだ生命あるものが出現しておらず、「やみ」に包まれている。
「神の霊」と「水」とが結びつき、やがて生命あるものたちを生み出す。
“神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。・・・”(「創世記」第1章)
「光」とは自我の霊であり、神の本質である。「光」に照らされていないもののすべてが「やみ」である。「光」の使命は「やみ」を照らし、意識と成すことである。
自我の霊が出現する前は、「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」のである。
「神の霊」すなわち神の自我は、あくまでも神の自我であり、人間の自我ではない。
ともあれ、神が「光あれ」と言うことによって、状況が一変する。
内向きであったもの、閉じた全体であったものが、外向きに変わる。外を照らし、外にコミットする。しかも全面的にコミットする方向へと舵を切る。
「光」は自ら照らし出す外部に対する責任を負う。他者に対する責任を担うのだ。
本来の「光」すなわち自我は、外に向き直り、外を照らし、外に関与する。共感をもって他者にコミットする。
その関与は全面的で、何も包み隠さず、見返りを一切求めることなく手を差し伸べる。
さて、人間はその悟性魂/心情魂において、ミームの影響下に、自らをペルソナとシャドーとに分ける。
ペルソナは好ましいもの、シャドーは忌まわしいもの。そして、ペルソナとシャドーの境界線は恣意的で、どこまでも暫定的だ。
この境界線の恣意性と暫定性とは、むしろ好ましい。なぜなら、そのような揺らぎがあることは、魂においてピュアなものが残っている証拠だから。
迷信に囚われた魂においては、この境界線が恣意的でありながら固定的になる。揺らぎと柔軟性が失われる。
そのような状態に陥ると、その悟性魂/心情魂は、外と他者に対して閉じる。肥大した主観性。権威主義。視野狭窄。他者を悪と決めつけ被害妄想に囚われる。
そのようにシャドーを排除したペルソナは、実のところ、致命的な自己疎外に陥ったのだ。
自分の中に自ら分断を生み出し、シャドーを排除したことで、終わることのない不全感に囚われる。
「自分には何かが欠けている、何かが足りない」という薄ら寒い感じを拭い去ることができない。
ここから種々の依存症へと至る道はそんなに遠くはない。
いずれにしても、悟性魂/心情魂におけるペルソナとシャドーの分離とそれに伴う両者の相克こそが、エゴイズムの本質である。
ペルソナとシャドーとは、元はと言えば、共にミームに由来する同一の文脈イメージの両面である。それはイメージであり仮象である。相互に鏡像のようなあり方をしているのだ。
通常、私たちはそれらイメージであり仮象であるペルソナとシャドーを、リアルなものと思い込み、ペルソナに同化し、シャドーを排斥する。だが、それらはリアルなものではないから、あなたは結局、自らの悟性魂/心情魂の内部で、エゴゲーム/一人相撲して満足したり、がっかりしたり、消耗したりしていることになる。
とはいえ、そのようにミームに派生する投影の装置がなければ、私たちは外部と関わることができない。もちろん、この場合、外部とのコンタクトは十全のものではありえないが。
つまり、悟性魂/心情魂は、ミームを通して、ミームに派生するペルソナとシャドーの分離を通して、仮想の外界を生み出し、仮想の外界を観察することを通して、いわば隔靴掻痒(かっかそうよう)の状態で外界にコミットしようとするのだ。他者にコミットしようとするのだ。
・・・
そのように独善的になり内向きに閉じこもる肥大した主観の外に出ること。