“・・・腕や足や頭が人間の構成要素であるように、一人ひとりの人間の人格は高次の世界の構成要素なのです。そして家族や民族や人種の生活において、一人ひとりの人間の外で、家族の魂や民族の魂や人種の霊が現実に作用しています。ある意味においては、個々の人間は家族の魂や人種の霊の意図を実行するための器官に過ぎないのです。
たとえば民族の魂は、ある仕事を実行に移すために、その民族に属する一人ひとりの人間を使います。民族の魂そのものは、感覚的な現実世界までは降りてきません。民族の魂は高次の世界で活動します。そして物質的な、感覚的な世界のなかで活動するために、民族の魂は一人ひとりの人間の物質的な器官を使います。それは、建築家が建物の個々の部分を仕上げるために労働者を雇うのと、高次の意味において同じことなのです。
私たちは皆、言葉の真の意味において、家族や民族や人種の魂から仕事を与えられます。ただし感覚的なものだけに目を向けている限りは、私たちはみずからの仕事に託されている高次の意図について知ることはありません。この場合、私たちは無意識的に、民族や人種の魂がめざしている目的のために働きます。
そして「境域の守護者」と出会った瞬間から、神秘学の学徒は、一人の人間としてのみずからの使命を知るだけでなく、自分自身が属している民族や人種の使命のために意識的に働かなくてはならなくなります。視野が広がるたびに、学徒が担う義務も限りなく拡大していくのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 234,235)
人がありがちなエゴイズムに囚われていれば、その仕事に取り組めない。
つまり、エゴイズムを離れなければならないのだ。
だが、私たちは嫌な自分をシャドーとして排除し、自己欺瞞に満ち満ちたペルソナとして立ち居振る舞う。そして自分が手前勝手なエゴゲーム/人生ゲームに明け暮れていることに気づかないふりを決め込む。
このゲームを駆動している悪魔的存在こそ、アーリマン/ルシファーに他ならない。
これがミームに派生する一つの側面だ。悟性魂/心情魂の一特性だ。
もう一つの側面は、人間が他ならぬミーム/悟性魂/心情魂を、一種の感覚器官として用いているということである。
この感覚器官は、思考・感情・意志の力を結びつけることによって機能する。
さて、人はそれぞれ個体である限り、同一の時間に、同一の場所に生まれない。個体性というものを物理的に突き詰めれば、そういうことになる。
だが、人はだれか特定の両親のもとに生まれ、その親たちは必ず何らかの民族に属しており、あなたは必ずその親たちを通じて、特定の民族性の全面的ではないにせよ支配下に生活し、成長する。
そこで、あなたの使命は大きく二つある。
ひとつに、あなたの所属する民族の魂のためにはたらくということ。
いまひとつは、その民族を超え出て、より高次の課題に目覚めるということ。
あなたの所属する民族の魂があなたにもたらした悟性魂/心情魂は、あなたにとってまたとない感覚器官として機能する。
肉体の感覚器官としての感覚魂だけでは獲得できない外界の相貌の在り様を事細かに、それはあなたに提供してくれる。
ところが驚くべきことに、私の見るものとあなたの見るものとは同じではない。彼の見るものもまた違う。
人によって見るものが違う。同じものを見ているはずが、見る角度が違えば、同じものも違って見える。
見え方が違うのにとどまらず、聞こえ方や何から何まで違う。感じ方がことごとく違う。
それに伴って、反応の仕方や振る舞い方が違ってくる。
そして、こうした多種多様な感じ方や反応の仕方、振る舞い方のすべてについて、どれが正しくどれが間違いかを、だれも主張する権威/権利をもたない。
もちろん多くの場合、人は自分の主観を絶対視して、それこそが正しいと主張する傾向に傾く。自分を否定することに耐えられないから。個体主義がエゴイズムへと変質する。
一人ひとり違う。まさに多様性。
多様性をもてはやすとしたら、個体性の現実がそもそも根差す他者の存在の現実を見据える霊的な勇気をも同時に持ち合わせている必要がある。
他者とはあなたの思い通りにはならず、徹底的に面倒くさい存在だという現実に対峙するのだ。
悟性魂/心情魂を一種の感覚器官だと言ったのは、それが主観であり、多くの場合、その主観が主観自身を絶対視して、自縄自縛の状態から抜け出ることができないからだ。何らかの刺激に反応して、ほとんど瞬時に浮かび上がる種々のイメージを無反省に/無批判に受け入れてしまう。ちょうど肉体の感覚器官が無媒介に感覚刺激を受け容れるのと似て。
この無媒介の主観性ほど危険なものはない。
なぜなら、人はこの状態、要するに悟性魂/心情魂と言うに等しいのだが、このような魂の状態にある限り、人はイメージの奴隷であり続けるからだ。どこからともなく訪れ、浮かび上がる種々のイメージが、あなたの主観を刺激し、主観と同化したあなたは、我知らずイメージに操られる。
それらのイメージはミームから来る。民族の神話であったり、資本主義的なアルゴリズムであったり、たしかにそうしたミームがあなたを教育し、あなたを成長させたには違いない。
いかに控えめに言っても、それではあなたは受け身のままだ。
よくできた感覚器官としての悟性魂/心情魂として、最高度に主観的だが、それがあなたの主体性を意味しないのは、感覚器官というものはどこまで行っても受け身だからだ。受信はするが、発信はしない。
あなたを使って、民族魂が、また資本主義的な衝動が、その目的を遂げようとする。
しかし、時代の霊は人間に更なる成長を促す。
今、時代の霊は他者の秘儀へとあなたを誘う(いざなう)。他者の秘儀を経ることをとおして、あなたは意識魂の境域へと至る。