地雷とトリガー ~ 意識魂の時代 | 大分アントロポゾフィー研究会

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地雷とトリガー。

起爆のメカニズムは同じだが、地雷はそれが隠れていて、人は意図せずにそれを踏んで爆発させるのに対して、何か特定の的を狙って、人は銃の引き金を引くのだ。銃が暴発しては、それは地雷と変わらなくなる。

いずれにしても、タイミングが合わなければ、意図の有無にかかわらず、地雷も銃もその起爆装置が機能しないのだ。

タイミングが合って、その起爆装置が機能すれば、爆発が起こる。

 

人間の魂において、同様の瞬発的なエネルギーの発散/放出が起こる。思考において、感情において、意志において。

とはいえ、悟性魂/心情魂が(従来どおり)調和的に機能している限り、意図せぬ想定外のそのような爆発/暴発は起こらない。

 

“「・・・わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。しかし、わたしには受けなければならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。・・・」。”(「ルカによる福音書」第12章)

 

イエスがここで言う「分裂」とは、エゴイズムが蔓延することによって、家族の絆が揺らぎ、旧来の共同体のメンバーを相互に結びつけていた価値(観)が消失することを意味している。カタストローフだ。それをとおして、人々は自由になる。

だが、一人ひとりが自分の好みや意見を主張し続けるばかりでは、ほどなく戦争が起こるのだ。

だれかが地雷を踏み、他のだれかが復讐のために銃の引き金を引く。戦争が始まり、そして終わる気配がない。

 

エゴイズム故に、始まった戦争。

もし人がその戦争を経て、生と死の深淵つまり境域にまで至れば、人はエゴイズムを乗り越えることができる。

 

イエスが、「わたしには受けなければならないバプテスマがある。」と語るとき、それは他ならぬゴルゴタの秘跡のことを語っているのだ。

つまり、エゴイズムの火によって、旧来の価値観であるミームに亀裂が生じる。人々は、エゴイスティックなペルソナとシャドーに分裂し、自らの魂の内に地雷を抱えるようになる。自分で仕掛けておきながら、どこに仕掛けたか誰にも分からなくなる。

他のだれかがその地雷を踏むかもしれないし、どこに埋めたか忘れたので自分で踏んでしまうかもしれない。

地雷を踏めば、自分の外に追いやったはずのネガティブなもの、つまりシャドーが姿を現す。そして、ペルソナを脅かす。

地雷が爆発したのだ。情念の炎がめらめらと燃え上がり、感情の昂ぶりが自我を翻弄する。観念が沸き返り、奔流となってもはやコントロールがきかないほどになる。観念放逸。衝動的な怒りに駆られて、我知らず他者に対して攻撃的になる。だれにも止めることができないほどに。

 

これが、ミームの終末段階において起こる人間の魂のカタストローフだ。悟性魂/心情魂の死だ。

時代の霊が意識魂を志向し、そのためにミームの支配が揺らいでいるのだ。すでにキリスト・イエスがゴルゴタの秘跡を成就するに際して、すでに語っていたことが今、人類的規模で起こる。

このような時代霊の要請をキリスト衝動ゆえだと言うことは、・・・あながち的外れではないどころか、むしろ正鵠を射ている。

 

人間は自らの魂を悟性魂/心情魂として発達させることによって、いわば驚くべき鏡像世界を、外部に(しかし、実のところそれは外部ではなく、内部であり、いわば仮想の外部世界である)生み出した。

自分の外に、ミームによって成って立つソリッドでマテリアルな世界が現れたのだ。魔術的な鏡像の世界が。

つまり、自分の内なるものが、鏡のようにはね返って/反射して、外なるもののように感じられる、そしてそのように外から来るように感じられるものが、実は自分の内面だということに、人は今のところ十分には気づいていない。この無意識性/無自覚をこそ、人間は今、克服しなければならない。

 

外から来るかに見える外部の鏡像世界に、他ならぬ自分の内なるものすべてが映し出されている。この奇妙であり奇怪でもある現実をよく観察する必要がある。

この意識的覚醒を、この意識性を、「意識魂」と呼ぶ。

だから、自らの悟性魂/心情魂を省みるのだ。ただしこの省察のベクトルがミームから来ていれば、それは意味を成さない。元の木阿弥、ミイラ取りがミイラになる。

 

そうではなく、この省察の眼差しは、他ならぬ、あの深みから来るのだ。・・・生と死の深淵、境域から。

 

通常、私たちはミームが人間の悟性魂/心情魂を介して生み出した魔術的鏡像世界を前にして、ペルソナとシャドーの一人相撲/人生ゲームに明け暮れている。驚くべき主観性の肥大。そこに本来の他者は現れない。

敢えて言えば、アーリマン/ルシファー由来の無数の幻像が、あなたの主観の空間を飛び回っているのだ。

そして、この主観の広がりは、境域のところで真っ暗になる。そこに死の天使が立っている。あなたはその天使に気づかない。

 

“あなたのなかに残っている恐れの感情や、すべての行為や思考に対する責任を完全に引き受ける力はないのではないか、という不安感をとおして、あなたはわたしの境域と出会います。あなたが自分自身でみずからの運命を導くことに恐れを感じているあいだは、この境域には必要な部分が欠けていることになります。そして境域を構成する要素が一つでも不安定であるうちは、あなたは呪縛されたようにこの境域で立ち止まったり、つまづいたりします。ですからあなたが恐怖から完全に解放され、最高度の責任を自分で引き受ける心がまえができるまでは、この境域を越えようとしてはなりません。

・・・

私はこれまで、あなたが死ぬ瞬間に目に見えない姿でそばに立っていましたが、いま、私は目に見える姿であなたの前に立っています。私の境域を踏み越えると、あなたは、いままであなたが地上を去るたびに足を踏み入れてきた領域に入っていくことになります。あなたは完全に意識的にこれらの領域に足を踏み入れ、それから先はずっと、外面的に目に見える姿をとって地上で生活しているときにも、同時に死の領域で(しかし本当は、それは永遠の生命の領域なのです)活動することになります。ある意味において、私は死の天使です。しかし同時に私は、けっして涸れることのない高次の生命をもたらす存在でもあります。生きている肉体のなかにいるときに、あなたは私をとおして死を体験しますが、それはけっして滅ぼすことのできない存在のなかで、ふたたびよみがえるためなのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 230~232)

 

通常、人は悟性魂/心情魂のこしらえ上げるスーパー主観世界の中で、ペルソナとしてシャドー相手の終わりなきエゴゲームに明け暮れる。

人はペルソナとほとんど完全に同化しており、本当は自らが外化したシャドーとの果てしない果たし合いに没頭する。

この肥大した主観(世界)こそが、エゴイズムの本質だ。

 

アーリマン/ルシファーに衝き動かされる意志衝動。過剰でぎらつく感情の泡立ち/沸騰。ミームの予定調和を逸脱し、暴走する思考。躁的な観念放逸と、ほとんどトランスとも言えそうな感情の飽和状態。

シャドーに対する執拗な敵意と容易に暴力に至る攻撃性。あなたはなぜそんなに復讐したがっているのか。復讐の刃はそのまま自分にはね返ってくるというのに。

これらの過剰をあなたはもうおさえきれない。ノーコントロールだ。

 

あなたは地雷を踏んでしまった。そして、あなたの中で何かが爆発した。爆発したものは多分一つではないだろう。何かが爆発すれば、それに連動して別の爆発が起こる。

あなた自身の主観世界の中で起こった爆発を、あなたが同化しているペルソナがどうにかできると考えるのは最高に安易だ。

主観が主観自身を客観視できるだろうか。

客観視は主観の外に出て初めてできる。主観の外に出て思考する。ペルソナの思考ではない。シャドーが思考するわけでもない。

爆発が契機となって、あなたは主観の外に出る。あなたはペルソナであることをやめる。ミームの拘束から抜け出る。

 

するとそこに広がるのは、荒野(あらの)だ。荒々しい実在、生(なま)の実在が眼前に広がる。