カタストローフ ~ 悟性魂/心情魂の終わり | 大分アントロポゾフィー研究会

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それは・・・黙示に等しい。

一つの時代が終わりを告げるのだ。

ミームの時代が。

 

その兆候は、人間の魂においては、思考・感情・意志の分裂・独立という形で現れる。

 

人間の社会においては、断末魔の呪いの叫びを上げるエゴイズムが、マテリアリズムと結託して、徹底的にニヒリスティックな虚妄の魔術が跋扈(ばっこ)する。そして、だれもその魔術から目覚めようとしない。気づかないから。自覚がないのだ。

 

つまり、この内外(うちそと)におけるカタストローフに、だれも対処する術をもたない前代未聞の恐怖の時代が訪れたのだ。

 

「今までも同様のカタストローフと転機を人類は何度も経験してきた」と言うことはできない。

なぜなら、今回のようなカタストローフと転機を、人類はそう何度も経験してはいないからだ。

今次のものは、かつてないもの。アーリマンとルシファーの呪力が今や最高潮に達している。しかも両者が相補い合って、その魔力を増幅させている。

 

だが同時に、人類はその悟性魂/心情魂を完成にまで導いた。

悟性魂/心情魂の成り立ちに思いを馳せれば、もともとは高次の霊的ヒエラルキアによって人間に与えられたミームに、アーリマン/ルシファーの介入/干渉があって、情念の炎が掻き立てられ、思考が過度に機械的・無機的なものへと矮小化し、人間の体と魂に宿る生命が退行して、意志が薄弱なものとなった。健全な自信を失った人間は、根拠のない強がりを言うようになってしまった。他者に対して、必要以上に防衛的になった。

 

つまり、アーリマン/ルシファーの介入/干渉によって、人間はエゴイズムとマテリアリズムの澱みに溺れ、ペルソナとシャドーの一人相撲の世界へと突き進んでいったのだ。いろいろな言い方はできようが、要するにエゴ・ゲーム/人生ゲームの虚妄の世界だ。

驚くべき主観の迷宮、肥大化した主観世界。

今、人間の悟性魂/心情魂はそのような言ってみれば閉ざされたアストラル空間内にありながら、その主観世界の他者に対する閉鎖性に気づきもしない。・・・あなたは他者に対して閉じている。そのような閉鎖空間に中にいる。ごくたまにあなたはその空間にだれも現れない、だれ一人やってくる人がいないのを不思議に思うかもしれない。でもすぐに見て見ぬふり、気づかないふりをしてやり過ごす。

 

そうしたエゴ・ゲームの一人相撲しながら、シャドーを排除して見えないところに追いやりながら、いつのまにか知らぬ間にあなたの主観世界の外部に、シャドーが集積した巨大なもう一つの世界ができあがる。

このシャドーの世界は、ことあるごとにペルソナを脅かすかに感じられる。あたかも排除されたことへの怨念を晴らそうとするかのように。復讐のように。

 

だが、もちろんその巨大な外部世界がその成り行きからして、内なる世界の鏡像であることは疑いの余地がない。

ペルソナ対シャドー。要するに一対のものだ。

そして、この対応関係の構造の屋台骨をなすものこそ、ミームであり、そのミームに囚われた悟性魂/心情魂である。

そして、悟性魂/心情魂とは、言ってみれば、思考・感情・意志これら相互の因習的な結びつき、そのような結びつきの集合体である。

 

悟性魂/心情魂の文化が時代を経て爛熟するに伴い、アーリマン/ルシファーから来る力が、高次の霊的ヒエラルキアの勢力を圧倒するようになってきた。

人間のエゴイズムによる恣意性の中に、こうした悪魔的な力がはたらいている。エゴイズムを主観性の過剰と読み替えることができる。

この流れが強まり、もともとはそれなりの調和を保っていたはずの人間の悟性魂/心情魂の営みに亀裂が生じ始めたのだ。

ミームは破綻する。危機が訪れる。

 

そのようなタイミングで、人間の魂にどのようなことが生じるか。

シュタイナーは、そのことを、「人格の分裂」と呼んでいる。

 

“・・・人間の生活を概観してみると、人生のなかに生じる事柄はすべて、このような思考と感情と意志の結合に基づいていることがわかります。思考と感情と意志が人間的な本性の法則にも続いて結びついている場合にのみ、人間の生活は「ノーマルな」なものと見なされます。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 216)

 

いまや、これまで「ノーマルな」ものと見なされてきた人間の生活の土台が揺らいでいるのだ。思考と感情と意志の結びつきが、堅固さ/堅実さを失おうとしている。

 

“・・・私たちが高次の発達を遂げるようになると、それまで思考と感情と意志という三つの基本的な力を結びつけていた糸は断たれることになります。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 217)

 

糸がまさにイレギュラーなかたちで断たれる。

とはいえ、それは何かの必然、あるいは・・・

いずれにしても、これはほとんど全人類的規模、広がりで起こる。これは、あるいは歴史の・・・

 

カオスとカタストローフ。

 

“神秘学の指示を守らないと、思考と感情と意志の力を切り離すことによって、私たちが霊的な発展の道から逸脱する可能性が三つ生じます。私たちはまず初めに、調和的に自由に作用しあうように、切り離された力を正しく制御することができるようになるまで、高次の意識をとおして認識を高めなくてはならないのですが、それ以前の段階で不用意に思考と感情と意志の結びつきを切り離すと、私たちは霊的な発達の道から逸脱してしまう可能性があります。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 219)

 

通常、私たちの大半は神秘学を知らないので、シュタイナーがここで指摘するように、神秘学の指示を知らず、それを守るという意識性も持っていない。当然のことだ。

ところが、時代状況がもはやミームの安定を許さない。私たちの魂の中で、エゴイズムとマテリアリズムが先鋭化し、ミームによる一種の全体主義的な調和を脅かすまでになった。

ミームに依存した思考・感情・意志の結びつきが断たれる。

「私たちはまず初めに、調和的に自由に作用しあうように、切り離された力を正しく制御することができるようになるまで、高次の意識をとおして認識を高めなくてはならない」のだが、「高次の意識」はいまだ生まれていない。

「高次の意識」とは、言葉を換えれば意識魂である。

 

時代の霊は、意識魂を志向しているが、それはまだ生まれていない。兆しはあるが。

だから今、人類はきわどいところに立っているのだ。

 

“たとえば意志の力が強い人の場合は、・・・意志はそれ自身で勝手に一人歩きを始めるようになります。意志は、たえずその担い手である人間を圧倒します。感情と思考は完全に無力になります。その人は奴隷のように、意志によって支配され、駆り立てられます。そしてついには、次々と自分勝手な行動を取ろうとする強引な性質が、その人のなかに現れるようになります。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 220)

 

一人歩きをする意志。もはやそれは人間の個人のものではない。その由来は、アーリマン/ルシファーだ。そこから衝動が来る。

 

“第二の逸脱は、一定の限界を越えて、感情が正しい法則によって支配されなくなるときに生じます。むやみにほかの人を崇拝したがる人は、極度に他者に依存するあまり、ついには自分自身の意志や思考を失ってしまいます。そうなると高次の認識が生じるかわりに、その人の運命は、悲惨といってよいほど、空疎で無力なものになります。あるいは、信仰にあつく、宗教的な高揚を好む人のなかで感情生活が優位を占めるようになると、その人は宗教にのめり込み、惑溺してしまう可能性があります。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 220,221)

 

まさに依存症だ。自分で思考することができず、他者に頼る。この場合の他者は、何も人間であるとは限らない。

脆弱な主観性が肥大する。迷信であり、魔術だ。もちろん黒魔術だ。アーリマン/ルシファー由来である。

 

“第三の弊害は、思考が優位に立つときに生じます。この場合には人間のなかに、人生に敵意を抱き、自分のなかに閉じこもってしまうような内省的な性質が現れます。このような人にとって、際限のない知的な欲求を満足させる対象を提供してくれるという点においてのみ、世界には意味があります。その人は、どのような思考によっても、ある行動を取ったり、ある感情を抱いたりするように駆り立てられることはありません。その人はどこへいっても、無関心で冷ややかな性質を保ち続けます。その人は日常的な現実と結びついた事柄と関わりあうことに強い嫌悪感を抱いたり、あるいは少なくとも、そのような事柄と関わりあうのは全く無意味だと考えたりします。そのため、その人は日常的な現実に属する事柄に関与するのを避けようとします。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 221)

 

マテリアリズムに拘束された無機的思考が一人歩きする。霊無き世界がどこまでも続いている。思考すればするほど虚しさが募る。

その人はニヒリズムに囚われる。死に至る病だ。

 

これら三つの逸脱によって、エゴイズムが増長し、意志薄弱で依存的な、融通の利かない主観性の罠にはまっていく。

アーリマン/ルシファーから来る衝動に衝き動かされ、迷信に満ちた戯言(たわごと)を真に受ける。