感覚魂、悟性魂/心情魂、意識魂とは | 大分アントロポゾフィー研究会

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感覚魂

 

あなたが受肉し、今生における肉体/物質体の中に入る。新たな地上の生活が始まる。

地上で生きるために、その肉体/物質体を成長させる。

地上で生きるために、地上の諸々を知るための感覚器官が肉体/物質体には備わっている。

 

あなたの受肉から、感覚器官が備わった肉体/物質体の成長に至るまで、高次の霊的ヒエラルキアの主導によって、それは成されるのだ。だからこの時点において、あなたは完全に目覚めている必要はない。この段階であなたは、感覚存在/意志存在である。

この場合の感覚とは、主に五感だが、この地上の世界で自らの肉体/物質体を動かし、駆使する際に必要とされる他の感覚も含まれる。

これらすべての感覚を含めて、肉体/物質体とみなすことができる。

 

さて、そうは言っても、感覚器官をとおして外的世界を知覚し、その知覚をもとにして自らの肉体/物質体を動かす主体を想定しなければ、事実に反することになる。

その主体を意志と呼んでもいいし、自我と呼んでもいい。

もしその主体を「魂/たましい」と呼ぶならば、その魂こそ「感覚魂」である。

 

受肉した自我としてのあなたの核心部分に、カルマ由来のモティベーションがある。

だから、受肉しこの地上の世界に誕生したばかりのあなたは、純粋な意志存在である。

赤子のあなたは、この地上の世界にあって、まったく無防備だ。まず、肉体/物質体を成長させなければならない。

あなたは家族に守られ育つ。

霊界からは、高次のヒエラルキアがあなたをサポートする。

 

クリスマスを巡るイメージの数々は、幼子を取り巻くこのような霊的ネットワークの象徴である。

 

 

悟性魂/心情魂

 

あらゆる民族のそれぞれの社会の拠り所には、必ず神話がある。

各々の神話の由来は、高次の霊的ヒエラルキア存在、つまり神々である。

 

これらの神話をミームとみなす。

神話のシナリオ/文脈イメージはミームに他ならない。

 

とはいえ、ミームがすべて神話であるわけではない。神話としての性格をなにがしかもっているとはいえ。

 

ミームがその本来の拠り所である神々から離れるにつれ、それは迷信に近づいていく。

神話もそのふさわしい語り手/読み手を失えば、迷信に堕す。

 

迷信に特徴的な傾向がある。

それは、エゴイズムとマテリアリズム。ルシファーとアーリマンだ。過剰な主観性と、生命と霊を否定するニヒリズム。情念の炎と死。

 

迷信に堕したミームを支配しているのは、だからルシファーとアーリマンである。

 

迷信も神話も共にミームだが、まさにこのミームというものを屋台骨にしているのが、悟性魂/心情魂である。

だから、悟性魂/心情魂の形成にあたっては、高次の霊的ヒエラルキアだけでなく、アーリマン/ルシファーもかかわっているのである。そして、真実の神話から迷信に至る大きな振幅の中で、人間の生活を条件づけているのだ。

その意味で、私たちは自由ではない。高次の霊的ヒエラルキアによる干渉、アーリマン/ルシファーによる侵害。

 

 

 

意識魂

 

ミームは、高次の霊的ヒエラルキアとアーリマン/ルシファーとが相克しつつも・・・そのプロセスを踏んで構築された文脈イメージの集合体である。

そこから出て来るシナリオは、重力と三次元空間、過去から未来へと不可逆的に続く時間という縛りから抜け出ることはなく、・・・

 

つまり、ミームにおける勢力図を見るかぎり、高次の霊的ヒエラルキアはアーリマン/ルシファーに屈しているというほかない。

 

そして、大天使ミカエルの時代となった今、この勢力関係を逆転するチャンスが訪れたのだ。

 

人間は、悟性魂/心情魂を完成にまで至らしめた。

ミームの支配が完遂されたのだ。

 

ところが、人間の眼前に広がるのは、殺伐とした死の世界と化した地上世界だ。

 

そして人は気づく。

 

この地上に広がる荒涼とした死の世界が、実は自分たちの中にも広がっていることに。

内外(うちそと)に、ミームの死の世界が広がっているのだ。

 

ここはまさしく生と死の境域だ。

そして、人はつぶやく。自らの問いかけざるを得ない。

 

「わたしの内にあるものが、外に出ていき、外に出て行った、そのもともとわたしの中にあったものが、はね返って/反射して、わたしの中にもどってきたのだ。わたしはそれを意識する。」

 

この内外(うちそと)の鏡面関係の意識性が、「意識魂」の本質である。

この驚くべき意識性が成立するために、ミームを媒介とした悟性魂/心情魂の成就が不可欠であった。

カミソリのように切れ味鋭く、水晶のように透明なガラスの鏡の意識。

 

情念の曇りもなく、澱んだり濁ったりしておらず、悟性の歪みや硬直もない。

意識魂の内にはたらく純粋思考である。