神の子の受胎が大天使ガブリエルによって聖母マリアに告げられ、キリスト・イエスが受肉し、荒野で悪魔の試しに遭い・・・そしてゴルゴタの秘跡を成し遂げるというそのシナリオが、私たち人間一人ひとりのそれぞれの自我の秘儀に、その時その場所に光を投げかけているのだ。
その光はこの世のものではない。それは、ルクス・エテルナ/lux aeterna 、霊の光である。
境域の小守護者 ~ 他者の秘儀
他者は徹底的に融通が利かず、面倒な存在だ。思い通りにならず、人の言うことを聞こうとせず、独りよがりで、何を考えているかさっぱり読めない。
悟性魂/心情魂が完成に向かう過程において、その当面、他者とはペルソナにとってのシャドーに他ならない。
ペルソナとは、まさしく仮の自我であり、エゴイズムの一面である。エゴイズム的主観にとって、ポジティヴな事柄のすべてがペルソナに集まっている。ただし、霊を欠くが故に、ペルソナは偽善と欺瞞とに満ちている。
一方、ネガティヴな事柄のすべてがシャドーとして、エゴイズム的主観の外部へと排斥されるのだ。
内(主観)と外(外界)を、エゴイズム的主観が恣意的に分け隔てたのだから、外部へと追いやられたものも、実際は悟性魂/心情魂に意識される限りにおいて、内なるものであることに変わりはない。もともと同じ場所にあったものだから。
このペルソナとシャドーの虚飾に満ちたエゴ・ゲームのシナリオは、最初から最後までミームに沿ってこしらえ上げられる。自己欺瞞の人生ゲームだ。
エゴイズムに囚われている限り、そこに本来の他者は登場しない。
あなたの周りに姿を現すのは、「それ/Es」としての疑似的な他者、シャドーばかりなのだ。
そしてあなたは彼らシャドーを物扱いして、操作し、支配しようとする。ある程度、それに成功したように感じられることはあっても、もちろんそれはあなたの独りよがりに過ぎない。事態はなんにも変わってはいない。他者に対する無理強いがうまくいくはずがないのだ。
そもそも、シャドーは他者と呼べるようなものではなく、あなた自身の一部なのだから、あなたがそのリアルを受け容れない限り、シャドーに対する嫌悪感や恐怖心は募る一方なのだ。
“・・・意志と思考と感情を結びつける糸が繊細な体(アストラル体とエーテル体)のなかで解かれるようになると、私たちは「境域の小守護者」に出会います。・・・学徒は、境域の守護者と出会うことによって初めて、自分自身の思考と感情と意志の本来の結びつきが解かれたことに気づくのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 227)
意志・思考・感情を結びつける糸が解かれると、人はそれまでと同様のシナリオを描くことができなくなる。意志・思考・感情を結びつけていたのは、他ならぬミームであり、それまで人は自分の意志でというより、また自分で思考してというより、そうではなくミームのアルゴリズムに従ってシナリオを描いてきたのだ。
思考・感情・意志の結びつきは、ミームによって、あたかも先験的に決定づけられていた。この先験性に、この予定調和の罠(わな)に、人は気づくことができる。
すると、ミームが「境域の小守護者」としてその姿を現すのだ。その姿を見ているのは、それまでのあなたではない。なぜなら、それまでのあなたが頼りにしてきた思考・感情・意志の疑似的な先験的結びつきが、いまや失われているからだ。
思考、感情、そして意志がそれぞれ独立した状態となり、悟性魂/心情魂としてのあなたの魂とミームとが分離した状態になる。
外化されたミームが「境域の守護者」としてあなたの前に現われる。
ともあれ、ミーム由来のペルソナ/シャドーの人生ゲームが、カタストローフに至る。
思考・感情・意志の分離と独立は、そのカタストローフの顕著な兆候だ。あなたは生と死の深淵の淵に立った。
多くの場合、カルマ的な出来事をとおして、人はこの淵に立つ。そして多くの場合、人はこの淵から通常の生活の場へと帰還する。
そのとき彼は、いわば、それまでの彼とは違う存在になっている。
“・・・「境域の守護者」がどんなに恐ろしい姿をしているとしても、それは学徒自身の過去の人生の結果であり、学徒の外で独立した生活を営むようになった、学徒本人の特性なのです。意志と思考と感情がばらばらに解き放たれることによって、学徒の特性は独立した生活を営むようになったのです。
このように、自分自身が霊的な存在を生み出した、と初めて感じることが、すでに学徒にとって意味深い体験になります。
このとき学徒はまったく恐怖を抱かないで、恐ろしい姿を見ることに耐えなくてはなりません。・・・
「境域の守護者」との出会いに成功することによって、神秘学の学徒が今度体験する死は、過去に地上の人生で体験した死とは、まったく別の出来事になります。学徒は意識的に死を体験します。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 233)
思考・感情・意志が分離し、独立するとは、換言すれば、悟性魂/心情魂としてのあなたの魂が終わったことを意味する。カタストローフだ。
あなたは、「境域の守護者」としてあなたの外部に登場した、いわばあなたの過去のすべてを直視しなければならない。それはあなた自身に他ならないのだから。あなたがあなたから逃げることはできないのだから。
もしあなたが恐怖を抱かずにミームと一体化したあなたの過去である「境域の守護者」を見すえることができなければ、あなたは奈落へと落ちるのだ。
“・・・私たちが興奮したり、動揺したりすることはなくなります。そうなると神秘学の学徒である私たちは、境域の体験をするときに、新しく目覚めた人生の基調となる至福感を予感することになります。自分が自由になったという感情が、そのほかのすべての感情を圧倒します。そしてそのような自由の感情とともに、一定の段階に到達した人間が当然引き受けなくてはならない新しい義務と責任が姿を現すのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 238)
これこそが、いわゆる「わたしではなく、わたしの中のキリスト」という新しい生のかたちの表明である。
あなたの悟性魂/心情魂は終わりを告げた。あなたはエゴイズムの桎梏を乗り越えたのだ。
あなたは、境域を踏み越え、生と死の深淵をのぞきこむ。「興奮したり、動揺したりすること」はない。あなたは、「新しく目覚めた人生の基調となる至福感を予感」している。「自分が自由になったという感情が、そのほかのすべての感情を圧倒」する。
“さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人もひかれていった。されこうべと呼ばれているところに着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。・・・
十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互(たがい)は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。”(「ルカによる福音書」第23章)
イエスを十字架につけた人々は、自分たちが「何をしているのか、わからずにいる」。なぜなら、彼らは古きものに囚われているからだ。アーリマンとルシファーが織り上げたミームが、彼らの魂を誘導する。そんな事態に陥っていることなど微塵も自覚しない彼らは、およそ救いがたい主観性の肥大の渦中にある。めらめらと燃え立つ情念の炎、霊を忘れた唯物論、そして迷信・・・
それに対して、イエスと共に十字架につけられた犯罪人の一人は、自らの処刑を前に生と死の深淵に至る。そして、キリスト・イエスの真実を直視するのだ・・・
その彼にイエスは、「わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と語る。つまり、この犯罪人の一人は、刑の執行の際にあって、至福を予感しているのだ。
境域の大守護者 ~ 自我の秘儀