「からだ」の力学 | 大分アントロポゾフィー研究会

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何かしようとするとき、私は「からだ」を使う。「からだ」に力をみなぎらせて、「からだ」を動かす。

「からだ」がひとりでに動くわけではない。

 

でも、「からだ」に力をみなぎらせるって何なのだろう?「からだ」を動かしているのは、本当に私なのか?

 

はっきりしているのは、「からだ」は私そのものではないということ。

その証拠に、「からだ」が私の言うことを聞いてくれないことがあるだろう。思い通りに「からだ」を動かすことができずに嫌な思いをしたりもする。

「からだ」に痛みが走ったり、それこそ病気になったりもする。そんなこと望んでもいないのに。

 

つまり、「からだ」は私の思い通りには、必ずしもならないのだ。

 

そんなとき、私は「からだ」が自分のものではないことを痛感する。

そう、「からだ」というものは借り物なのだ。だれもが、「からだ」を高次の霊的ヒエラルキアから借りている。彼ら霊的ヒエラルキア存在たちは、私たちに「からだ」を貸してくれる。私たちは「からだ」なしにはこの地上の世界を生きることはできない。

 

「からだ」は、高次の霊的ヒエラルキア存在たちの協働によって成立している。その意味において、「からだ」は霊的であり、根源的である。「からだ」には「からだ」独自の生命と力がある。

そのような「からだ」を抜きにして、私たちはこの地上に生きることはできないのだ。

 

ところが、私たちは「からだ」独自の生命と力を、必ずしも快くは思わない。

私たちが、独自の生命と力とを有する「からだ」と全面的に和解するのは、私たちが純粋思考を成すことができるようになったときだ。それまで私たちは、ミーム由来の悟性的思考によって、そしてミームに依存し頼り続けて、この世の生活を何とかやり過ごす。

 

このとき、私たちは「からだ」を自分から遠ざけているのだ。疎外し排除した。根源的な生命と力を有する「からだ」が、私たちにとってますます得体の知れぬものに化ける。ミーム/悟性的思考は、このような「からだ」の謎を解くことができない。

この「からだ」の疎外という根源的な疎外の出来事こそが、エゴイズムの端緒である。この出来事を悟性的に取り繕うために、私たちは自分たちの魂へのミームの浸潤を許すのだ。そして、ミームはエゴイズムの色合いとその力学に徹底的に染め抜かれている。

ミームのアルゴリズムに従って、私たちは自分たち自身を守るために力の行使という暴挙に出る。暴力が行使される。

 

ミームという一種の寄生的なアルゴリズムには、「目的のためには手段を選ぶな」という定数が組み込まれている。この定数が、エゴイズムと暴力そのものであることに、ほとんど疑いの余地はない。そして、エゴイズムと暴力には、なにやら暗い快感が必ず伴う。悪魔的な快感と言うべきだろう。

 

エゴイズムの成就と暴力の行使のために、私たちはあろうことか「からだ」を使うのだ。「からだ」を搾取するのだ。

そのようにして「からだ」は、ぼろぼろになってゆく。ぼろぼろになってゆく「からだ」を見ながら、私たちはまたぞろ悪魔的な快感を感じているのだ。その不健全さはもはや言語を絶している。