1 スポーツを手放しで持ち上げることには抵抗があったが、スポーツが「からだ」をつかうことによって成り立つということのかけがえのなさは認めなければならない。この地上に生きるかぎり、私たちは「からだ」をつかうのだ。
1-1 通常、私たちは自らの「からだ」と同化しているが、実際には、「からだ」は私たち自身ではなく、他者である。「それ/Es」としての他者。
1-1-1 だから、時に私たちは、「からだ」が自分の思い通りに動かなかったり、「からだ」のどこかが、あるいは全体が痛かったりきつかったりしたときに、「からだ」というものの他者性を思い知らされる。持て余して、その融通の利かなさに嫌気がさす。
1-2 とはいえ、「からだ」がなければ、私たちはこの地上の世界の豊穣を享受できない。スポーツはそのような豊穣の一つの表れだ。
1-3 勘違いしてはならないのは、実のところ、「からだをつかう」という言い方は事実に反していることに思い至らねばならないということ。「からだにつかわれる」というわけでもない。そうではなく、私たちは「からだ」によってこの地上に生存することができているということなのだ。
1-3ー1 だが同時に、「からだ」というものは、「わたし/Ich」なしにはこの地上に出現/現象することはない。
1-3-2 「からだ」と「わたし/Ich」は生命によって結ばれ、「からだ」の内に魂が宿る。
1-3-3 その「からだ」は常に一度きりの現れ/出現であって、そのかけがえのなさを誰もないがしろにすることはできない。神でさえも。
1-4 「からだ」のそのような一回性、そのかけがえのなさに思い至れば、「それ/Es」としての「からだ」に私たちは愛おしさを感じるようになる。その「からだ」は複製できない。コピーできない。そして、その「からだ」は二度とこの世には現れない。私たちは、今ここでしか享受できない特別な事柄に気づく。この気づきは純粋思考に他ならない。「からだ」はそのようにして「それ/Es」ではないものへと変容を遂げ始める。
1-4ー1 「からだ」を「それ/Es」として、外的な他者として排除したり、それに依存したりし続けるかぎり、「からだ」の本当の姿は見えてこない。「からだ」の声は聞こえないままだ。排除は疎外そのものだが、依存も疎外の歪んだその裏返しだ。
1-5 「からだ」をそのように疎外し続けることから、魂にミームの幻想空間が広がる。私たちはそのようにしてリアリティから遠ざかるのだ。
2 「からだ」の一回性、その稀なる出現に目を止めるのは、あなたの「わたし/Ich」だ。そのように、「からだ」と「わたし/Ich」との間に、純粋思考による関係性が生み出されるならば、そこにミームの入り込む余地はない。
3 私たちはこの地上において、「からだ」を介して相互に結びつく。その結びつきを「わたし/Ich」が見つめるのだ。
3-1 このとき私たちは、自らの「からだ」を疎外していないから、他者との関係性において、他者を疎外することはない。
4 ミームはペルソナが「からだ」を疎外することから始まる。そのような疎外のアルゴリズムが魂の内に広がる。ミームの幻想空間は疎外のアルゴリズムによって組み立てられている。
5 私たちは問いの立て方を誤る。ミームの幻想空間にいるかぎり、私たちは間違った問い方をする。そしてそのような間違った問い、見当違いな問いにも、ミームは答えを返してくる。まったく恣意的に。どんな回答もミームには可能であり、私たちはそれに安心する。気が利いているとさえ思う。
5-1 あなたは「からだ」の融通の利かなさから、「からだ」を嫌うようになる。嫌えば、「からだ」はあなたから遠ざかる。そして、この地上での生活を続けるうえで、あなたは内的な矛盾を抱え込むようになる。自分の「からだ」を何かよそ者のように感じ始めるのだ。自分の「からだ」のせいで何もかもうまくいかないという思いが強くなる。「それ/Es」としての「からだ」をうざく感じるようになる。
5-2 この内的な矛盾、内なる疎外が、ミームへの依存度を高める。おそらく誰もが内に抱えるそのような疎外状況が起点となって、すべてのミームが現象している。だからミームのアルゴリズムは、疎外のアルゴリズムである。だれの幸せにもならない。他者のみならず、自らをも疎外し続ける、いわば蟻地獄のような迷宮。
5-3 ここで言う疎外とエゴイズムとは同意である。疎外と排除のないところにエゴイズムはない。
5-3-1 もとをたどれば、エゴイズムは私たちが自らの「からだ」を疎外したところに端を発する。疎外された「からだ」は「それ/Es」になる。自分の中の気に入らない部分がすべて、「からだ」のせいにされる。そのようにして、ペルソナは「からだ」をシャドーとみなす。
5-3-2 気づいたときには、シャドーとしての「からだ」が、内にも外にも広がり、ミーム空間に充満しているのだ。私たち自身が嫌って排除し疎外した「からだ」が、まったくの異物、絶対的な他者として、私たちに襲いかかってくるかのように感じられる。そんな状況にあって、私たちは無力で孤立無援、誰の助けも得られない。自業自得。
6 そんな内向きの、一種の頑固な閉鎖性が、蔓延しつつある。
6-1 もとをたどれば、自分たちの自己矛盾だ。
6-1-1 「からだ」への嫌悪感/反感 → 「からだ」が「それ/Es」とみなされる → 「からだ」が絶対的なまでの他者として現れる → 「からだ」を排除/疎外する → ペルソナとシャドーの分離 → ミームの強化 → エゴイズムの蔓延 ・・・
7 ペルソナが根拠を欠き表面的であるのに対して、シャドーとしての「からだ」は根源的である。
7-1 通常、私たちは、ペルソナを自分であると思い、私たちが自分を「わたし」と呼ぶとき、それはペルソナのことである。
7-1-1 ペルソナはミームのアルゴリズムによってがんじがらめにされ、どこまでもそのようなミーム空間を漂流する。ペルソナが拠り所とするのは、ただミームのみ。ミームの仮面のようなものだから、ペルソナと呼ぶのがふさわしい。