ミームとは | 大分アントロポゾフィー研究会

大分アントロポゾフィー研究会

ブログの説明を入力します。

ミームは巨大である。それに対し、人は小さい。

ミームは巨大であるが、存在そのものではなく、仮象である。

人は小さいが、神によって命と霊を吹き込まれたので、仮象ではなく存在である。

 

ミームはいわゆる唯物論であり、同時に唯名論である。

つまり、ミームは「それ/Es」がもの/物であり、そこに霊は生きていないことの表明である。

だから、「それ/Es」の世界は実体を伴わず、霊を欠くが故に、ニヒリズムである。

 

人は虚無の中に生きることはできない。

 

悟性的思考は、ミームを模倣し、コピーするのに汲々として、魂の内と外とに仮象の諸々を映し出すが、人はその幻像の迷宮の中で致命的な病に陥るのである。死に至る病、ニヒリズム/虚無主義である。

霊と命を再び見出すまで、人がこの病から回復することはない。

 

“主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせた。主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。

「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。

それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。”(「創世記」第2章