「創世記」のアダムとエバの物語。
ルシファーに誘惑される前、「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」
ルシファーに誘惑され、エバが善悪を知る木からとって食べ、アダムもそれに従った。
“・・・すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。”(「創世記」第3章)
「ふたりの目が開け」とは、それまで子どものようにいわば無垢であったふたりの魂が、悟性魂/心情魂へと変容したことを物語っている。つまり、彼らふたりはルシファーに誘惑されて、善悪を知る木からとって食べることにより、自らの魂へのミームの浸潤を許した。そしてそれからは、ミームといういわば色眼鏡を通して、彼らの周囲に広がり、展開している諸々を見るようになる。
ミームはただの色眼鏡ではない。ミームなしには、人間の周囲に広がり展開する諸々は存在すらしない。
それら諸々は、実のところ存在しないのである。つまり、ミームはそれら諸々を、他者そのもの、あるいは他者の反映のようなものとして、内外のミーム空間に映し出すのだ。
それら諸々は、何らかのイメージである。ミームによって、人間はイメージをありありと見るようになるのだ。ミーム由来のイメージには、常に何らかの感情が結びついていて、イメージと感情とはほとんど一体化している。
悟性的思考がイメージの生みの親だとすれば、それらのイメージに付随する感情は心情魂由来であり、その意味において、悟性魂と心情魂とは区別できないのである。
ルシファーが介入する前の人間は、ミームを持たなかったので、「ふたりとも裸」というイメージを見ることなく、それ故に「恥ずかしいとは思わなかった」のである。
しかし、ルシファーの介入により、人間の魂にミームが入り込むと、「ふたりの目が開け」た。つまり、ミームによって、「自分たちの裸であること」を目の当たりにして、恥ずかしいと感じたのである。
ミームのアルゴリズムが作動した。
「自分たちが裸であることを知る」→「恥ずかしいと思う」→「いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻く」
「裸」→「恥ずかしい」→「隠す」
さて、なぜ、裸は恥ずかしいのか?
それは端的にミームにそのように書き込まれているからだ。
裸が恥ずかしいことには、それ以外何の根拠もない。
つまり、恣意的なのだ。
もちろん、人間にとって恣意的であるように思われても、人間以外の存在にとってはそうではないということもあり得るだろう。
例えば、高次の霊的ヒエラルキア存在たちにとっては、恣意的ではないのかもしれない。必然的なのかもしれない。
そうだ。ミームをそのように生み出し、諸々を書き込んだ者こそ、高次の霊的ヒエラルキア存在なのだ。
彼らは、この地上の世界に、肉体をもって生きるということはない。人間は、まさに肉体をもってこの地上の世界に生きる。
だが、人間は自らのそのような肉体を、自分で生み出したのではない。
そうだ、人間は自らの魂に宿ったミームも、自らの肉体も、いずれも自分では生み出してはいない。ミームも肉体もいわば借り物である。
だが、肉体もミームも共に、私たちがこの地上の世界を生きる基盤である。
同時に、肉体もミームも共に、私たちの力が及ばない。コントロールできない。そのような意味において、肉体もミームも私たちにとっては他者そのものである。
“神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。神はまた言われた、「私は全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。・・・”(「創世記」第1章)
“・・・主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。・・・”(「創世記」第2章)
主なる神によって人間は造られた。その肉体の素材は土のちり、すなわち鉱物である。そして神は、その肉体に命の息を吹き込んだ。生命であり霊であるものが、神によって人間に与えられた。
神は人間をエデンの園に置き、そこに見て美しく、食べるに良いすべての木をはえさせた。それらの木、つまり人間の生活の糧はミーム的に存在する。見る者には見えるが、見ないものには無いに等しい。それらを見るためには、善悪を知る木が必要である。
悟性的思考が必要なのだ。
悟性的思考の際立った特徴は、ミームを模倣する、ミームをコピーするということだ。
このような悟性的思考に、意志的思考である純粋思考が対置される。創世記が「命の木」と呼ぶものこそ、この純粋思考である。
悟性的思考はミームをコピーし、いわば神々の思考を模倣するが、霊を欠き、唯物論の域を脱することができない。
それに対し、人は純粋思考によって、この地上の世界に霊を再発見し、唯物論を克服するのである。