今や時代は意識魂の時となったので、人類がこれまで成し遂げてきた事柄のすべてが過去の遺物、すなわちミームとなったのである。
ミームは過去の遺物である。人類の歴史上の成果が必ずしも過去の遺物に化するというわけではなく、意識魂の時代が始まったことにより、人類の過去の成果がミームと化し、新しきものの胎動を阻害するように働くことになるのだ。
意識魂との対比において、悟性魂/心情魂は硬直し、もはや生命を失っている。悟性魂/心情魂においては、エーテル体とアストラル体の連携が見られない。
さて、人類の歴史上の成果とは何か?
例えば、19世紀初頭のドイツにおいて、メンデルスゾーンがバッハの『マタイ受難曲』を復活演奏させたことで、バッハ・ルネッサンスが起こった。
過去の遺物のように思われていたバッハの音楽の中に、新しいもの、光のようなもの、命のようなものを多くの人が感じたのだ。
バッハの音楽が再発見されたと言うことができる。
同様の再発見/ルネッサンスが、人類の歴史において数限りなく起こった。
さて、そのような再発見/ルネッサンスは、何も歴史の教科書に載るようなかたちでばかり起こるわけではない。それは、日々成長を遂げる一人ひとりの人類の個人においてむしろ起こっているのだ。
このような再発見/ルネッサンスにおいて、人は何を見出しているのだろうか。
人類の記憶が想起されるのだ。
これまで人間がこの地上の世界において成し遂げてきた価値ある事柄のすべてが、人類の記憶として、霊的に共有される。
古い書物や建造物、道具の類が、いわゆる遺物として、物質的に残っていることもある。場合によっては、それらの遺物が長期にわたる保存を目的として、人為的に何らかの施設に保管されることもあるだろう。
今では、デジタルデータとしての保管が隆盛を極めている。
だが、人類の記憶というアスペクトにおいては、そのような物理的な保存や保管は、むしろ二次的な問題である。
この地上の世界から物理的には形をとどめなくなったとしても、消滅してとしても、人類の個人としてのだれかによって、準備が整いさえすれば、いつでも想起される態勢で、霊的に保管されているからである。
ここで忘れてならないのは、人類の記憶がただ静的にたたずんでいるわけではなく、それを想起する人間の個人が必ずこの地上の世界を生きるというめくるめく相互性のことである。
このような相互性を前提にしてはじめて、人類の記憶の再発見/ルネッサンスという事柄に言及できるのだ。