“・・・それから言われた、「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。・・・」”(「ルカによる福音書」第4章)
キリスト・イエスは故郷のナザレに帰る。ナザレの人々は、イエスのことを「大工のヨゼフの子」としてのみ知っている。彼らは、イエスがキリスト存在であることなど思いもよらないのだ。久しぶりに故郷に帰ってきたイエスが、いかにも偉そうにしているのを目の当たりにしたナザレの人々は、それを自分たちへの侮辱のように感じて、イエスを殺そうとするのである。
さて、そうした状況が展開されるのを知ってか知らずか(もちろん、キリスト・イエスはそんなことは百も承知の上で)帰ってきたわけだ。彼は人類の教師だから。
“多くの人は、「秘められた事柄について教えを受けるためには、高次の知識を備えた導師をどこかに見つけなくてはならない」と信じています。しかしこの場合、私たちは、二つの真実が同時に存在している、と考えなくてはなりません。第一の真実とは、「高次の知識を真剣に求める人は世界の高次の秘密を手ほどきしてくれる秘儀参入者を探し出すのに、どんな苦労も、障害も、いとわないはずである」というものです。そしてその一方で、「どのような状況のもとにおいても、認識を求めて、ふさわしい方法で真剣に努力する人には、秘密は明かされる」ということも、誰の目にも明らかな第二の真実として存在しています。というのも、秘儀参入者は皆、「高次の秘密を求める人には、その人にふさわしい知識を伝えなくてはならない」という当然の掟に従うからです。しかしそれと同時に、「ある種の秘められた知識に関しては、能力が十分なレベルに達していない人には明かすことは許されない」という掟も存在しています。この二つの掟に従うとき、秘儀参入者は、より完全な存在になります。すべての秘儀参入者をつなぐ霊的な絆は、表面的な性質のものではありません。この二つの掟をとおして、確固とした枠組みが作り上げられています。本書を構成する様々な要素は、この枠組みの範囲内で一つにまとめられることになるでしょう。
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秘密を受け取る段階まで人間を霊的に成熟させる道は、厳密に定められています。この道がめざす方向は、霊的な世界において、消すことのできない永遠の文字によって、最初から示されています。秘儀参入者たちは、この霊的な世界において高次の秘密を守っています。有史以前の太古の時代には、霊的な神殿は霊的な世界に存在するだけではなく、目に見えるものとして外界に存在していました。しかし私たちの生活が霊的でなくなってしまった現代では、霊的な神殿は、目によって知覚できる外界には存在しなくなりました。しかし本当は、霊的な神殿はいたるところに存在しています。そしてそれを探そうとする人は、実際にそれを見つけることができるのです。
秘儀参入者から秘密を教えてもらうための手段は、私たち自身の魂のなかにしかありません。私たちはまず自分自身の中で、ある種の特性を特定の高いレベルまで発達させなくてはなりません。そうすれば最高の霊的な宝物が、おのずと私たちに与えられることになります。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 5~7)
「秘儀参入者から秘密を教えてもらうための手段は、私たち自身の魂のなかにしかありません。私たちはまず自分自身の中で、ある種の特性を特定の高いレベルまで発達させなくてはなりません。」とシュタイナーが語ることを端的に言い換えるならば、ミームと同化した悟性魂/心情魂を脱して、意識魂を出現させること。ミームを支配するエゴイズムの論理を超えて、他者との間に「わたし/Ich」-「あなた/Du」の関係を構築すること。
キリスト・イエスはその時代のナザレの人々を支配していたミームを相対化し、総合的な意味合いにおいてそれを否定したので、ミームに依存しきっていたナザレの人々は、イエスを裏切り者とみなし、殺そうとする。私刑に処そうとする。まさに人類の歴史の成り行きにおいて、何度も繰り返されてきたように。異なるミームは対立する。それぞれが異質なものに対するネガティヴな情念を相対化し、それを外化/昇華しない限り、争いは終わらない。
悟性魂/心情魂は、意識魂を理解することができない。両者の間には、深淵がある。
意識魂に至ると、人はそれまでの自分の限界を知るのみならず、そのように限界づけられた過去の自分を、いわば許すことができるようになる。
過去の自分をそのように許容できるならば、人はそのとき初めて、自分の思い通りにならぬ他者というものの本質を理解し始める。
あなたは内的に分裂し、許容できない何ものかを、自分の外へと追いやった。
その何ものかを、あなたが依って立ち、自らの生活の指針と成すに至った何らかのミームに照らして、あなたは許容できない。あなたが自らの魂の内に抱える矛盾だ。
あなたはこの地上を生きるようになるや、何らかのミームに由来するペルソナとして生きることを強いられる。誰もが、特定の時代と特定の場所に生きるが故に、これは不可避だ。
自らの内にミーム由来のペルソナを生み出すと、必ずその影/シャドーが現れる。ペルソナとシャドーとがあなたの魂の内で主導権争いをする。
あなたは自らの魂の内で展開されるいつ止むともしれぬその戦いに倦み疲れ、シャドーをあなたの外部へと追いやる。もちろん、そんなことでシャドーは消滅しない。シャドーはいつまでもあなたの一部であることを主張し続ける。
あなたはシャドーのそのような主張を認めようとしないだろう。だが、いずれにしても、ペルソナもシャドーもあなたに由来するのだ。あなたはいつまでもミーム空間の独り相撲を続ける。
シャドーは外部に投影され、「それ/Es」としての他者となる。
このように、ミームは人間の魂に由来する一種の魔術を展開する。壮大な幻影。
この魔術と幻影を、私たちは現実だと思い込んでいるのだ。
この偽りの現実の中で、「それ/Es」としての他者は、常にあなたに敵対する者として現れる。
「それ/Es」としての他者は、あなたの思い通りにはならない。ペルソナとしてのあなたは、もともとあなたの思い通りにならない何ものかを、シャドーとして外部に投影したのだから、シャドーである「それ/Es」が思い通りにならないことは、始めから決まっている。内側の葛藤が外側の葛藤になっただけのことで、もはやそうなれば、内も外も関係ないのである。
さて、こうした不毛な葛藤と戦いが、すべてミームに由来することに思い至ることが、霊への道行きの出発点である。
イエスを迫害しようとしたナザレの人々は、ナザレのミームを絶対視/絶対化して、そのミームに囚われ、キリスト・イエスの真実を見抜くことができなかった。
同様に、この時代この場所に生きる私たちも、この時代とこの場所のミームに囚われている。
こうしたミームの全体像をある程度俯瞰しない限り、私たちはこの囚われから抜け出すことはできない。
驚くべきことに、ミームの外に出たと思ったら、そこは、類似の、あるいは別のミームの内部だったと気づくのだ。
そうだ。何か別のものが必要だ。ミームのアルゴリズムと一体になった悟性的思考ではなく、霊に由来する純粋思考が。