私ではなく、私の中のキリスト・・・ | 大分アントロポゾフィー研究会

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“・・・胎児がおぼろげな生命感情にうながされて、ふさわしい力を獲得するのと同じように、私たちは、まだ高次の自己が生まれていない段階で、霊的な世界の力をとおしてふさわしい力を身につけることができるのです。高次の自己が完全に成長を遂げた存在として世界の中に誕生するためには、私たちは霊的な世界の力の助けを借りなくてはなりません。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 176)

 

ここでシュタイナーが、「霊的な世界の力」と呼ぶものこそ、キリスト衝動に他ならない。

 

“・・・学徒は、霊的な世界に存在しているものを物質的な世界の原因として知覚することができるようになります。そして学徒はとくに自分自身の高次の自己を、物質的な世界のなかに見出します。

神秘学の学徒の次の課題は、この高次の自己をめざして成長していくことにあります。すなわち学徒は高次の自己を自分自身の本質と見なし、それにふさわしいふるまい方をしなくてはなりません。学徒はますます、「私の物質体と、私がいままで『私(自我)Ich』と呼んできたものは、高次の自我の道具である」ということを、生き生きとした感情とともにイメージするようになります。・・・「私は一瞬たりとも物質的な世界の確実な基盤を失うことはない。したがって私は、自分は感覚的な世界から疎外されている、とはけっして感じない」という考えが、学徒にとって自明のものとならなくてはなりません。夢想家や空想家にならないようにするためには、神秘学の学徒は高次の意識をとおして、物質的な世界における人生を貧しいものにするのではなく、むしろ豊かなものにするようにしなくてはなりません。・・・

このようにして高次の自我の中で生活するようになると(あるいは、すでに高次の意識を獲得しようとして努力しているあいだに)、神秘学の学徒は、霊的な知覚能力を心臓の付近に生まれる器官のなかに目覚めさせて、これまでの章で述べてきたような流れをとおして霊的な知覚能力を制御する方法を習得します。心臓の付近の器官から生じ、美しく輝きながら、活動する蓮華を通って(あるいは発達したエーテル体のそのほかの水路を通って)流れていく高次の素材と関わる要素のなかで、この霊的な知覚能力は生じます。この要素は外に向かって、周囲の霊的な世界のなかに光を送り込み、このような世界を霊視できるようにします。それは、太陽の光が外から当たることによって、物体が目に見えるようになるのと同じなのです。

心臓の器官の知覚能力はどのようにして生み出されるのか、という点に関しては、私たちは自分でそのような知覚能力を形成していくことによって、少しずつ理解するようになります。

このようにエーテル体をとおして外界のなかに知覚器官の光を送り込み、対象を照らし出すとき、ようやく私たちは本当の意味において、霊的な世界の事物や存在をはっきりと知覚することができるようになります。

以上見てきたことから、自分自身で霊的な光を事物に投げかける場合にのみ、私たちは霊的な世界の事物を完全に意識化できることがわかります。すでに述べたように、このような知覚器官を生み出す「自我」は人間の物質体のなかにではなく、物質体の外に存在しています。心臓の器官は、人間が外からこの霊的な光の器官を燃え立たせることができる唯一の箇所です。もし人間が心臓の器官とは別の箇所で光の器官を燃え立たせるならば、光の器官をとおして生じる霊的な知覚は物質的な世界と結びつくことができなくなります。私たちはあらゆる高次の霊性を物質的な世界の関連づけ、自分自身の器官をとおして感覚的な自己を道具として使い、心臓の器官のなかから感覚的な自己を操作するのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 187~189)

 

私たちは、自らの自我の拠り所を、物質体の心臓の付近に有する。そして、「血は全く特製のジュース」なのである。血こそが、霊的なる自我のこの地上の世界における現われに他ならない。高次の自我と霊的な生命とが血の中に生きている。

そして、その場所から、「霊的な知覚能力」としての純粋思考が光り輝く。

それは意志的な思考であり、霊的な思考。それは、キリスト衝動に根差す。

認識であると同時に、創造でもある。新たなものが生まれるのだ。

 

ミームのアルゴリズムにただ沿うだけの悟性的思考とは全く異なる。

悟性的思考においては、何ら新しいものは生み出されない。過去の繰り返しだ。ありきたりなもののコピーと、それに伴う常に想定済みの感情とイメージのいわば牢獄。無生命の世界。

 

霊的生命は高次の自我を拠り所とする。だから、無明の場所は死が支配するのだ。純粋思考の働かない悟性魂/心情魂において、ペルソナとシャドーの暗闘が繰り広げられ、寝ても覚めてもその不毛の戦いは止むことがない。

 

「高次の自己が完全に成長を遂げた存在として世界の中に誕生するためには、私たちは霊的な世界の力の助けを借りなくてはなりません。」とシュタイナーが語るように、またキリスト・イエスの弟子たちがキリストとの対話を通して、彼ら自身の高次の自我を目覚めさせたように、人はキリスト衝動の助けを借りることにより、自らの高次の自我へと至る道を前に進めることができる。

なぜなら、キリスト存在こそは人類の自我の神であり、その人類の自我であり記憶であるものと同質の霊的核心を、私たちは自らの魂の内奥に有するのだから。

この霊的核心から、霊的生命が湧出する。この生命において、破壊と創造とは、本質において変わるところはない。常に変容して止まない有機的思考体のみがある。これが霊というものの在り様である。

 

デカルトが、「我思う、故に我あり」とイントゥイションした時に、彼の魂に輝いたその光を、私たちは自らの魂の内に灯すことができる。そのように純粋思考の光が灯ると、魂は意識魂へと変容するのだ。霊の夜明け、霊的覚醒。