「ミームの未来」を語る何者かが登場すると、群衆は礼賛する。
そもそもミームに未来はないのに。
ミームは一つの悟性的思考の終着点であり、そこから何か新しいものが生まれることはないのだ。
すでに生命は枯れていて、ミームとして固まった。
鉱物的な死の世界である。
だが、そのような鉱物的死の世界であるミーム空間を生きる群衆は、「ミームの未来」を待望し続けている。
そして、「ミームの未来」を語る者が現れる。
群衆は、その「ミームの未来」に自分たちのエゴを投影し、熱狂し始める。
そこに思考は働いていない。
群衆は夢を見ているのだ。ミームの夢だ。
そこにモラルはない。浮遊するイメージだけがある。イメージ自体に善悪はないのだ。
そこに思考は働いておらず、誰もがミームのイメージ夢に浸っているのだから、すでにそのこと自体、狂気である。
そして、そのようなミームの夢を共有しない者は、自らの内に疎外感を持つのみならず、群衆から疎外/排斥される。
そのように疎外された者が、やがて何らかの「ミームの未来」を語るようになることは十分あり得る。ただし、上手に語らなければ、群衆は自分たちの「ミームの未来」とはみなさず、その人物を私刑に処するに違いない。