記憶の秘密 | 大分アントロポゾフィー研究会

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何事か、そうだ、何か出来事を体験すると、

あなたの魂の内に、一種の節(ふし)のようなものが形成される。

一般に、そのような節は、「記憶」という名前で呼ばれる。

 

記憶は、実のところ、それほど容易には形づくられない。

人は自分の周囲でどんなことが起こっても、ほとんど気づかず、目を向けてさえいないのが普通である。

たとえ、たまたま気づいて、それに目を向けることがあったとしても、すぐに目を逸らし、注意を注ぐまで至らず、記憶に残らない。ほとんど本能的なまでの動物的巧みさで、瞬時に自分には関係のないこととみなして、関わらない。

 

記憶というものは、自我が何らかの他者と、意志的に/主体的に関わることなくしては形成されない。

出来事というものは、自我が何らかの他者と、意志的に/主体的に関わっていくことにより成立する。

 

人は運命的に/カルマ的に出来事に遭遇し、いわばそれに巻き込まれるが、それに・・・対峙し、向き合い、他ならぬ当事者として逃げも隠れもせぬ態度を取れるか否か、それは他の誰でもないその人次第である。

そして、このポイントこそがすべての出来事の鍵を成す。

 

自我の関与が薄ければ、出来事は記憶に成らない。

自我が濃密に積極的に関与することで、出来事は記憶として遺る。

そのように遺された記憶は、人の魂の中で、純粋思考のための道標となる。

個々の記憶も、純粋思考を経ることにより、変容を遂げる。変容した記憶は、また新しい道標となる。

そのような有機的変容と生成がある。この豊穣はかぎりがない。

 

このような自我と純粋思考、出来事と記憶の関係性の方角から、悟性魂/心情魂の実体としてのミームとそのアルゴリズムを俯瞰してみることが大切である。

 

1 ミームは出来事を成立させない。アルゴリズムとして閉じており、そこからは何も新しいものが出てこない。いわゆる予定調和の閉鎖空間なのである。生成する世界ではない。だから、「生成AI」という造語は、事実誤認の産物だとしか言いようがない。言語矛盾である。

1-1 ミームの世界は、アルゴリズムの世界であると同時に、コピーの世界である。ミームはコピーによって増殖する。数量的に増えはするが、それによって新しいものが生み出されるわけではない。せいぜい、「いつか来た道」「いつか見た景色」という無機的な既視感だけがある。

1-2 ミームのコピーが他者の魂へと浸潤する。あたかも寄生虫のように、細菌のように。そしてその人の魂の中で、ペルソナとして機能する。のっぺりとした、ありきたりの、決まりきった表情とシークエンス。

1-3 そこには生命はなく、アーリマン/唯物論から来る死が支配している。なにごとも機械的に、無機的に進む。魂の死へと向かって。それから肉体の死へと。

1-3-1 ミームに囚われた魂は、死を恐れる。自分が死なないためなら、何でもするぐらいのエゴイズムによってがんじがらめになっている。

1-3-2 自らの故郷が霊の国であることを確信できないところから、エゴイスティックなすべてのミームのからくりが出てくる。自らの故郷が霊の国であることを思い出すことができれば、エゴイズムは消えるのである。

 

2 しかし、私たちが自らの霊の故郷を思い出すことは、実のところ容易ではない。とは言え、あからさまに言えば、実のところ、私たちは故郷を忘れ、そしてもう一度故郷を思い出すために、そうだ、ただそれだけのために、受肉し、この地上の世界へと降りて来たのだ。救世主であるわけでもないのに。

2-1 だが、人としてこの地上の世界を生きることで、私たちはある特権を獲得した。自らの高次の自我へと至る機会を得たのだ。もちろん、このことは同時に霊の故郷を思い出すことでもある。人類の記憶が蘇る(よみがえる)のだ。

2-1-1 時間が逆戻りするわけではないが、私たちは、そのとき、いわば未来を思い出す。なぜなら、エーテル界の時間の流れの中へと入ってゆくから。

2-1-2 このとき、過去から未来へと時間が流れるように感じられるのは、ミームゆえであることが明らかになる。

 

3 アーリマン由来の唯物論とルシファーに由来するエゴイズムが、ミームを統べている。

3-1 唯物論とエゴイズムに囚われると、人は自らを「それ/Es」とみなすようになり、それが他者に投影され、他者をも「それ/Es」であると決めつけるようになる。唯物論とエゴイズムに支配されたミーム空間において、人はいわゆるペルソナとなり、人間の体と身振り、そして言動はペルソナの道具として酷使される。

3-2 ミーム空間の中で、人々はペルソナとして寝ても覚めても演技を続け、戯れ合う。やがてエゴイスティックな情念の高まりと興奮に倦み疲れ、精魂尽き果て、・・・

3-3 何者かを「それ/Es」とみなすことは、その何者かを疎外することを意味する。根深く強烈な反感がそこには働いている。

3-3ー1 他者を「それ/Es」とみなす上での前提として、自らを「それ/Es」とみなすという原初的・根源的疎外、つまり自己疎外が働いている。

3-3-2 受肉によって、自分が霊的故郷から体的に離れたこと。アーリマンの支配する地上の世界、死の世界に至ったこと。そして、霊的な故郷の記憶が消えてしまったこと。つまり、いずれ死ななければならない人間存在として、死の支配するこの地上の世界をさすらわなければならないという孤独感と絶望の念が、魂を責め苛むのだ。

 

4 ここで注目すべきなのは、そもそも孤独感や絶望といった強烈な「もののあわれ」の情感は、ミームのアルゴリズムには組み込まれていないということだ。

4-1 つまり、そうした強烈な情感は、ミームから離脱するチャンスを提供するものであると考えるべきだ。通常は体験することのない激烈で非日常的な情感が、魂に例外的な状態、変性意識状態をもたらす。魂は生きる上での危機に直面する。生死にかかわる人生の一局面だ。

 

5 ミームの根幹に唯物論とエゴイズムとがある。

5-1 そのようなミームの一類型として、競争と復讐、そしてギャンブルがある。

5-1-1 悟性魂はほとんど常に、競争に勝とうとし、誰かに復讐しようとし、そして儲けようとしている。悟性魂の生き甲斐は、競争し続けること、そしてその競争に勝つこと、やられたらやりかえすこと、そして努力せずに金儲けすることである。アーリマンとルシファーはそのための土俵を提供する。そして人は、その土俵の上で一人相撲をし続けて、競争に敗れ、敵討ちに遭い、そしてぼろ負けして路頭に迷う。

5-2 一度それらのミームに嵌まると抜けられなくなる。依存のアルゴリズムが組み込まれているのだ。他に頼るものを見出せないのだから、それに頼り続けるしかない。その惰性が人に根拠のない安心感をもたらし、人は無感覚になる。

5-3 いずれにしても、唯物論とエゴイズムに嵌まっているのが低次の自我である。

5-3-1 低次の自我は悟性魂/心情魂とミームとに同化している。アーリマンとルシファーの言うなりである。

 

6 生と死の深淵、生死にかかわる人生の一局面に至って、人は低次の自我としての自分に対峙し、その姿をつぶさに見始める。

6-1 例えば、競争し、復讐し、お金に囚われているペルソナとしての自分の姿が見えてくる。

6-1-1 あなたは何を見始めたのか?

6-1-2 あなたは本来のあなたではないあなたを見始めたのだ。

6-1-3 では、その本来のあなたではないあなたを見るあなたは何者か?

6-1-4 そのあなたこそあなたの高次の自我である。高次の自我が低次の自我を見ているのだ。

6-2 低次の自我が煮詰まって、生と死の淵に立ち、いわば魂の既存の組成/成り立ちが崩壊の危機に瀕して、何者かが現れる。競争の対極、復讐の対極、お金の向こう側、つまるところ唯物論とエゴイズムの対極であり、彼岸にある何者かが。

 

*ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』より

“発達した蓮華をもちいることによって、私たちは初めて、物質的な世界に属さない事柄の開示を夢のなかに書き込むことができるようになります。エーテル体を発達させることによって、私たちは、自分自身が別の諸世界から書き込んだものを完全に意識化するようになります。

このようにして私たちは新しい世界と交流を始めます。・・・私たちが霊的な印象に対して自由に注意力を向けることによって、これらの印象が物質的な印象によってかき消されることはなくなり、私たちは物質的な印象と同時に(すなわち物質的な印象とともに)、霊的な印象をとらえることができるようになります。

このような能力を獲得すると、神秘学の学徒の霊的なまなざしの前に、・・・ある種のイメージが現れます。学徒は、霊的な世界に存在しているものを物質的な世界の原因として知覚することができるようになります。そして学徒はとくに自分自身の高次の自己を、物質的な世界の中に見出します。

神秘学の学徒の次の課題は、この高次の自己をめざして成長していくことにあります。すなわち学徒は高次の自己を自分自身の真の本質とみなし、それにふさわしいふるまい方をしなくてはなりません。学徒はますます、「私の物質体と、私がいままで『私(自我)Ich』と呼んできたものは、高次の自我の道具である」ということを、生き生きとした感情とともにイメージするようになります。・・・

・・・高次の自我のなかで生活するようになると(あるいは、すでに高次の意識を獲得しようとして努力しているあいだに)、神秘学の学徒は、霊的な知覚能力を心臓の付近に生まれる器官のなかに目覚めさせて、これまでの章で述べてきたような流れをとおして霊的な知覚能力を制御する方法を習得します。心臓の付近の器官から生じ、美しく輝きながら、活動する蓮華を通って(あるいは発達したエーテル体のその他の水路を通って)流れていく高次の素材と関わる要素の中で、この霊的な知覚能力は生じます。この要素は外に向かって、周囲の霊的な世界のなかに光を送り込み、このような世界を霊視できるようにします。それは、太陽の光が外から当たることによって、物体が目に見えるようになるのと同じなのです。

心臓の器官の知覚能力はどのようにして生み出されるのか、という点に関しては、私たちは自分でそのような知覚能力を形成していくことによって、少しずつ理解できるようになります。

このようにエーテル体をとおして外界のなかに知覚器官の光を送り込み、対象を照らし出すとき、ようやく私たちは本当の意味において、霊的な世界の事物や存在をはっきりと知覚することができるようになります。

以上見てきたことから、自分自身で霊的な光を事物に投げかける場合にのみ、私たちは霊的な世界の事物を完全に意識化できることがわかります。すでに述べたように、このような知覚器官を生み出す「自我」は人間の物質体のなかにではなく、物質体の外に存在しています。心臓の器官は、人間が外からこの霊的な光の器官を燃え立たせることができる唯一の箇所です。もし人間が心臓の器官とは別の箇所で光の器官を燃え立たせるならば、光の器官をとおして生じる霊的な知覚は物質的な世界と結びつくことができなくなります。私たちはあらゆる高次の霊性を物質的な世界と関連づけ、自分自身をとおして物質的な世界の中に作用を送り込むようにしなくてはなりません。高次の自我は心臓の器官をとおして感覚的な自己を道具として使い、心臓の器官のなかから感覚的な自己を操作するのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 186~189)

 

7 出来事はこの地上の世界において起こる。それは低次の自我の関与の強弱いかんに関わらず、起こるべくして起こる。低次の自我はペルソナとして唯物論的にエゴイスティックにそれに関与する。私たちがまさに今、眼の前に見る安手のセンチメンタルな悲喜こもごもが、出来事の本質なのではないとは言え、欠かすことのできない魂の道行の一局面であることは疑いの余地がない。

7-1 ペルソナとしての低次の自我は、出来事の中で夢を見ている。ミームの夢を見ているのだ。その夢の中で一喜一憂している。その夢は記憶に残らない。

7-2 ペルソナが見ている夢から醒めると、ものごとは夢の中で見ていたときとはまったく異なった様相を呈し始め、出来事の本当の意味がわかってくる。霊が姿を現す。

7-2-1 他者との関係性の中にある「わたし/Ich」。出来事のただ中にあって、他者と意志的に関わる「わたし/Ich」。唯物論とエゴイズムを克服して初めて、本来の思考が働く。純粋思考である。

7-2-2 ペルソナの操作性の内にエゴイズムが蠢いている。エゴイズムは人間の体的個体性といわば癒着している。体的個体性とその体的感性が唯物論の基盤である。

 

8 いずれにしても、ペルソナは一つの媒介であり、契機である。魂なしでは、人は体に結びつくことができないという意味において。

 

9 出来事はいずれもカルマの開示であり、霊的である。

 

10 さて、「記憶」も「カルマ」も「出来事」も言葉として一つの語彙に過ぎないが、私たちはこれらの語彙を媒介にして、純粋思考に、そして霊に至るのだ。このとき、これらの語彙は言葉として、いくつものミームのアルゴリズムの中にも現れるから、私たちは注意深くあらねばならない。なぜなら、ミームの罠にはまることで、私たちは霊から遠ざかることになるからである。同じ言葉が出てくるからといって、それらの同じ言葉が同じ意味を持つとは限らない。

10-1 言葉の多義性が、まずは人を相対主義へと導く。構造主義からポスト・モダンに至る流れは、その現れである。いわゆる言語論的転回が、この流れを特徴づけている。時代を遡れば、スコラ哲学の時代の唯名論に同種の思想傾向を認めることができる。

10-1-1 多義性を恣意性と矮小化することで、ポスト・モダンは袋小路にはまっている。

 

11 とは言え、これは一つの大きな節目である。ポスト・モダンの相対主義は、ミームを相対化する。悟性魂/心情魂に巣食ったミームの相対化を経ることなしに、次の段階へと進むことはできない。次の段階とは、意識魂であり、純粋思考であり、もちろん霊である。

11-1 言葉の多義性とミームの恣意性に最大限の注意をはらいつつ、そうだ、ミームを相対化し続けること自体、それはすでに純粋思考である。ミームからの離脱の感覚、解放される感じが生まれる。