通常の生活において、私は目覚めてなどおらず、ある種の夢見の状態にあるが、それに気づきもしない。
そして、それらの個々の夢のエピソードは必ずしも相互に関連してはおらず、途切れ途切れで、そのように途切れているとき、私の意識は消えているのだ。意識がないので、記憶もない。いわばブラックアウトの状態だ。
通常、私はそのとき意識がないので、記憶がなく、自分がブラックアウトの状態にあったことを憶えていない。だから、そのように無意識にあったことを自覚しようがないのである。目覚めていたし、今もずっと目覚めていると思い込んでいるのだ。
私は通常、そのように夢のイメージが浮かんだり、消えたりする、いわゆるミームの夢の中にある。
ミームの夢の中にあれば、差し当たって通常の日常生活を送る上で特に困ることはないかもしれない。
だが、覚悟しておかなければならないのは、魂の内にミームが巣食っている以上、日々の生活上の苦悩、卑俗な感傷的幸不幸の類からあなたは逃れることはできず、少しずつあなたは疲弊し、消耗してゆく。そして、あなたは時々、なぜ自分はそのような人生を送っているのかと自問する。おそらく、あなたは何か満たされないものを感じ、何かが間違っているような気がしている。
そうなのだ。そのような時、死神がそばにいることが、何となく感じられる。死がすぐ隣にある。
ミームの道は、死への道である。なぜなら、その道を敷いたのは死の国の王であるアーリマンだから。肉体が死ななくても、魂は死ぬ。魂が死んだら、肉体は抜け殻も同然だ。抜け殻になった肉体をいくら鍛えても、それは虚しい。
さて、ミームからの離脱が始まると、そのような魂の異相が表面化する。
自らの魂の内に巣食ったミームの虚構性に気づき始めると、ミームの夢に亀裂が入る。その夢が幻で、根拠も支えもないことがわかってくる。あなたは真空状態の中に一人取り残される。
その寄る辺のない感じがいつ終わるのか、わからない。
実のところ、ミームから離脱することは容易なことではない。
アーリマンのもたらす死と隣り合わせだとはいえ、アーリマン/ルシファー由来のミームに依存することで、あなたはこれまでの日々の生活を曲がりなりにも乗り切ってきたのだ。ミームを失ったとき、あなたは何を支えにして生きればいいのか。
通常、人はミームを離脱する必要性を何ら感じていない。日々の生活に何らかの乗り越え難い不都合が起こらない限り。
だが、そうした不都合はどんな人にも必ず起こってくる。なぜなら、ミームとは死への道行、死へと向かうように組み立てられたアルゴリズムの集合体だから。キェルケゴールの造語「死に至る病」は、まさにミームのそのような死の性格を表すのにふさわしい。
いずれにしても、人は自らの日々の生活と魂とにそれを感じると、それまでの生き方を変えたいと願うようになる。そのような虚しさを自覚しなくても、魂の内奥ではそのことを痛感しているのだ。
すると、だれが望んだわけでも、だれが意図したわけでもないのにもかかわらず、あなたは家を出て、路頭に迷う、そのような奇妙なことが必ず起こってくる。あるいは、何か不幸な出来事があなたを襲う。凶星に見舞われる。だれの人生にも、そのようないわば常軌を逸したような何事かが起こるものなのだ。
霊はそのように人生に介入してくる。もちろん、その霊とはその人の高次の自我に他ならない。
通常、あなたの自我は低次の自我として特徴づけられる。その自我は、悟性魂/心情魂に巣食ったアーリマン/ルシファー由来のミームである。
低次の自我は高次の自我を知らない。知る由もない。
運命的な出来事を通して、あなたは自分がそれまで依拠してきたミームの救いがたい虚構性を知るようになる。
ミームのアルゴリズムをいくら駆使しても、解けない人生の謎に直面するからだ。人生はいよいよ謎めいてくる。あなたはもはや人生の舵を取ることができない。コントロール不能だ。
だがそのようにして初めて、あなたは自分の人生に直に向き合うのだ。自らの魂にまともに対峙するのだ。ようやくあなたは真剣になった。自らを偽ることに何の意味もないことに気づき始めたのだ。
このようにして、あなたの魂は悟性魂/心情魂から意識魂へと変容し始める。
あなたは、ミームから離脱し始める。
この時点で、意識魂はまだ成熟してはおらず、その内にはたらく純粋思考をあなたが十全に意識することはできない。
ちょうど、キリスト・イエスの弟子たちがその師と成す対話において、師の語ることを完全には理解できないのとちょうど同じである。
弟子たちは、キリストの復活後、聖霊降臨を経て、キリストの語ったことを本当の意味で理解するようになったのである。
つまり、だれもが自らの魂のおいて、聖霊降臨に匹敵する霊的な出来事をいずれ経験する。
そのとき、この地上の生が聖別され、霊的な生活へと変容する。実体変化するのである。聖体拝領。
“・・・だから、目をさましていなさい。いつの日あなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。だから、あなたがたも用意しておきなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。・・・”(「マタイによる福音書」第24章)