ルドルフ・シュタイナー『自由の哲学』を読む(3) ~ 「1918年の新版のためのまえがき」 | 大分アントロポゾフィー研究会

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あるミームに囚われると他の人が見ているものが見えなくなる。その他の人も通常何らかのミームに囚われているから、その人も私の見ているものが見えない。

しかし人は日々の生活を営み、いろいろな人に出会い、いわば成長してゆくから、その過程でミームが変更を迫られたり、実際に他のミームによって取って代わられたりして、それに伴ってものの見え方も変わってくる。

また、こういう言い方も実は変なのだが、共同のミームあるいは共通のミームに依存する複数の人間が、いわば徒党を組み、他のミームの信奉者を排斥したり、攻撃したりするということは、人類史において、実のところ繰り返されてきたのである。

 

だから、人類の歴史はいまだ個人の歴史などではなく、何らかの特定のミームによって、いわば魂を奪われた人々の血生臭い戦いのパノラマ絵巻き、まさに異なるミーム間の攻防の歴史と言わざるを得ない。

 

しかし今、時代は変わろうとしているのだ。悟性魂/心情魂の時代から意識魂の時代へと。

私たちは、アーリマン/ルシファー由来のミームに囚われた悟性魂/心情魂の闇、その闇夜の夜明けを迎えようとしているのだ。

その夜明けを告げるのが、『自由の哲学』である。

 

通常、人は何らかの悟性魂的ミームに囚われているので、純粋思考を記述した『自由の哲学』を正しく読み解くことはできない。純粋思考は意識魂において成され、悟性魂/心情魂とは次元が異なるのである。意識魂は、悟性魂/心情魂よりも高次である。シュタイナーの著作をたくさん読んでいる人の多くも純粋思考ができないので、いわゆるシュタイナー・ミームに囚われており、この著作を理解することはできない。多くの場合、『自由の哲学』の言葉の上でのテキストを、自分が依存しているミームに牽強付会して自己満足/自己保身に終始するのである。

 

いずれにしても、自分が何らかのミームに囚われていることを確認しなければならない。その魂の現実をよく見て、ミームの正体を暴かなければならない。

シュタイナーが当時対峙していたミームを、彼は「不健全なカント信仰」と呼んだ。唯物論的科学主義であり、悟性魂の絶対化と特徴づけられる。

 

いずれにしても、ミームに囚われた魂の現実、それは悟性魂/心情魂の現実をよく見る、俯瞰する、そしてそのミームの在り様を熟知する、このことがすでに純粋思考の始まりである。

 

そのようにして純粋思考が成されれば、・・・あなたの魂はととのい、そして静かになる。禅僧よりも静かになる。滝修行者よりも静かになる。もちろん、そんな馬鹿げた比較は無意味だが、とにかく静かになる。もちろん、静かではないのに静かになったと自分を偽ってはならない。自分のことだから、あなたが一番わかっている。人からどうこう言われる筋合いのものではない。そのようにして、ととのい、そして静かになると、・・・この状態を観照の状態と言い、つまるところ無比の境地に至ったことになる。さらに続けてもいいし、とりあえず止めてもいい。

 

以下、それぞれの段落の冒頭に、『自由の哲学』(高橋巖訳 イザラ書房)の該当する引用箇所のページ番号を記すスタイルにする。

 

9 人間の魂は二つの根本問題を抱えている。これから本書が扱うすべては、この二つの問いとの関連で論じられることになる。問題の一つは、われわれが人間の本性を考察する場合、いくら体験や学問を深めていっても、それだけでは十分に解明できない事柄にどうしても行き着いてしまうが、そういう事柄のすべてにも有効な考察方式が一体存在するのか、ということである。・・・もう一つは次のような問題である。意志する存在である人間は自分を自由だと見做すことができるのか、それともそのような自由があるように思えるのは、自然の現象だけでなく、人間の意志をも支配している必然の糸を、人間が見落としているからなのか、自由とは単なる幻想なのか。・・・この二つの根本問題の中の第二の問いを通してどのような体験を持つかは、第一の問いにどう対処するかによって定まる。このことが本書の中で示される筈である。人間本性を考える上で、一切の他の認識の支えになってくれるような、ひとつの観点が存在することを証明しようと思う。この観点を持つことができれば、意志の自由を完全に是認することができるのである。しかしそのためには、まずはじめに、意志が自由に生きられる魂の領域が見出されねばならない。

二つの問いに関わるこの観点を一度手に入れることができたなら、それは魂を活気づける力になる。単なる理論的な解答だけが与えられ、確信だけが記憶として後に残るというのではない。本書の基本的な考え方からいえば、そのような理論的な解答は見せかけの解答にすぎない。出来上がった解答を与えることではなく、魂のある体験領域を示唆することが大切なのである。いつも、その都度必要に応じて、内なる魂の中から新しく解答を見出すことができるためにである。これらの問いの存在を自分の魂の領域の中に見つけ出すことのできた人は、その領域を深く洞察することによって、人生のこの二つの謎を解くのに必要な鍵を手に入れるであろう。そしてさらに、それによって謎に満ちた人生そのものに拡がりと深みとを与えることもできるであろう。 - 認識とは本来そのような在り方をしている。人間の魂のすべてのいとなみに深く関わる認識の在り方こそが、その認識の正当性と有効性とを証明しているとも言えるのである。

 

〇 考察 ~ 「意志する存在である人間」とは「自我存在としての人間」のことである。なぜなら、意志するその主体はまさしく自我に他ならないからである。自我は他者から独立することによって自立し、そしてその意味において自由である。だから、「我思う、故に我在り」というデカルトの自我の命題を自らの魂の内部に直観し、体験できれば、自由が幻想かも知れないなどという疑念は起こりようがない。

「われわれが人間の本性を考察する場合、いくら体験や学問を深めていっても、それだけでは十分に解明できない事柄にどうしても行き着いてしまう」とシュタイナーが語るとき、彼は通常の体験や既存の学問によっては近づくことのできない霊的な事柄を念頭に置いている。もちろん彼は、『自由の哲学』の中では、そのことについて意図的に言及することを避けている。『自由の哲学』の純粋思考のコンテキストにおいては、「単なる理論的な解答」には何の意味もない。それが神秘主義的なものであれ、カント流の認識論であれ、科学の体裁を取った論文の類であれ、・・・そのようなものをいわゆる妄信したり、信仰箇条のように祭り上げたりするなど、言語道断なのである。

「人間本性を考える上で、一切の他の認識の支えになってくれるような、ひとつの観点」とは、デカルトの自我命題に原理的に示されている純粋思考以外にはあり得ない。そして、純粋思考こそが、「出来上がった解答を与えることではなく、魂のある体験領域を示唆することが大切なのである」とシュタイナーの語る、魂のその体験領域なのだ。他の誰でもない、まさしくあなたがそれを体験しなければならない。あなたこそが純粋思考を成すのだ。

あなたが純粋思考を成せば、あなたは人間の本性と森羅万象の謎を解明し、自らの霊的故郷を思い出す。そして、自らが霊において自由であることを疑うことはなくなる。認識は芸術に等しいものとなり、あなたの人生は「拡がりと深み」を獲得するのである。

デカルトの自我命題が、純粋思考の原型/原形であるとあなたがあなたの魂の内において確認/了解すれば、シュタイナーが「認識とは本来そのような在り方をしている」と語るその本当の意味を理解する。そして、悟性魂/心情魂と意識魂の違いを知る。ミームと純粋思考の違いを知ることになる。

あなたは「人間の魂のすべてのいとなみ」を俯瞰するのみならず、そのダイナミクスを洞察する。そしてそのような認識を成し得るのは、意識魂にはたらく純粋思考のみである。