思考についての地図 ~ 悟性的思考と純粋思考 | 大分アントロポゾフィー研究会

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思考、感情、意志という魂の働きがある。この三つを混同してはならない。

いずれも私たち自身の魂に直接的に現れるので、基本的には私たち自身がこれらを直接的に観ればよい、本来そのような性格のものである。

直接的に観て、それらの性格や成り立ちをよく見極めれば、この三者を混同するというようなことは起こり得ない。

それを成せばよい。

 

しかし実際には、これらの魂の働きについて、現実に即した見取り図は見当たらない。

ほとんど誰も、そのような直接的観察をしていない、と。

無責任極まる唯物論の傾向が、私たちの生活を支配しているのだ。

「魂を直接観察するなど、どうかしている。すべては表象だという軽薄な観念論になる。」という強迫観念のようなものが、私たちから勇気を奪っているのにちがいない。

 

たしかに、このポイントは一つの大きな分水嶺のようなものではある。

近現代の思想史は、この境域に対する態度をめぐって展開されてきたという経緯は確かにある。

そして、決着はついてはいないのである。

・・・霊と物質とが ~

 

もちろん、人類の記憶に由来する世界各地の神秘主義的なテキストは、その見取り図を提供しているわけだが、それを的確に読み解くことのできる人はあまりいない。誤解されるか、曲解されるか、無視されるか、そして排除され、人の目につかなくなってゆく。

 

純粋思考を成せば、思考、感情、意志の真実が見えてくる。

純粋思考を理解するのは、純粋思考のみである。

悟性的思考は、純粋思考を理解することができない。

私たちが通常成しているのは、悟性的思考である。

 

さて、純粋思考と悟性的思考を比較しながら、それぞれの特徴を説明する。

 

1 純粋思考はヨハネ福音書冒頭で出てくる言(ことば)/ロゴスである。ロゴスとは何か、だれも説明していない。そもそもそれは説明できるようなものではない。しかしそれは、あなたの魂にも現れ得るものであるし、「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。」とヨハネ福音書が語っているように、説明の必要もなく、それは現前しているのである。

1-1 あなたの内にあなたはロゴスを見出し、外なる自然の内にもロゴスを見出す。外なる森羅万象があなたの体にまで広がっているのをあなたは見い出す。鉱物界、植物界/エーテル界、動物界/アストラル界をあなたは自らの内にも見出す。そのすべてにロゴスがはたらいている。

1-2 ロゴスとは純粋思考であり、単なる地上的な言語ではない。「この言に命があった。」とヨハネ福音書が語るように、純粋思考は生命であり、創造する力である。芸術に代表される人間の創造的な営みはすべて、ここに端を発する。

1-2-1 純粋思考の典型的な発露を、例えばベートーヴェンのピアノソナタに見ることができる。ベートーヴェンがいなければ、これらの作品はあり得なかった。彼はその芸術によって人類の記憶を豊かなものにした。つまり、純粋思考が成され、それまでにはなかった新しいものが生み出されることによって、人類の記憶は豊かなものになるのである。

1-3 人間の生活領域の多種多様の場面に、純粋思考がはたらく。

1-3-1 例えば音楽創造の場面において、ベートーヴェンはロゴスから来るものを自らの純粋思考によってとらえ、それを記譜した。それは言語的なものではなく、音楽だったから。生命と創造する力である純粋思考は、そのとき音楽に他ならなかったのである。

*だから、「思考は言語である」という極めて短絡的な憶断は、厳に慎まなければならない。言語は思考を記述する一手段である。思考は言語とは異なる姿をしており、その立ち居振る舞いも言葉を超えている。言葉によって思考のそのような姿や振る舞いを写し取れると考えるのは軽率である。

 

2 悟性的思考は、ミームのアルゴリズムをなぞる。アルゴリズムによってゴールは決定済みで、あなたは既に与えられているそのゴールに向かって闇雲に進むだけだ。

2-1 ミームは、アーリマンによってその基盤と骨組みが与えられ、ルシファーがあなたを扇動する。マテリアリズムとセンチメンチリズムによってがんじがらめになったミームの空間から、悟性的思考は脱け出ることができない。悟性魂/心情魂の空間である。そのような悟性魂/心情魂のカリカチュアが、コンピューターでありAIである。間違っても、悟性魂/心情魂をAIの劣化ヴァージョンだなどと考えてはならない。

2-2 いずれにしても、ミーム空間は死が支配している。アーリマンとルシファーと呼び換えてもよい。

2-2-1 「そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」とヨハネ福音書は語る。純粋思考は生命であり、目覚めである。純粋思考することによって、ミームの夢から覚めるのだ。目覚めれば、夢は消え去る。純粋思考によって、アーリマンとルシファーの支配するミーム空間を離脱するのである。

 

3 私たちの生活を、その根源において支えるのは、他ならぬ純粋思考であり、純粋思考は私たちの日常の生活場面のすべてにおいて、根源的に律動している。私たちの体(たい)をまさにそうあらしめているものの正体こそ、純粋思考である。

3-1 通常、私たちは私たちの体を貫く純粋思考について、無自覚である。だから、私たちは夢を見ながら、夢うつつの状態で日々の生活を営んでいるに等しい。私たちは実のところ目覚めてなどいないのである。だれも目覚めていないとすれば、いったいだれが・・・そうなのだ、あなたの魂がミーム空間であるのみならず、私たちの社会、生活空間がミーム空間なのだ。内にも外にもミーム空間が広がっている。

3-2 このミームの空間内で、私たちは悟性的思考を成す。そして、死に向かってよしなしごとを成す。それが生活だと思い込んで、天使たちが見たら、死の舞踏に他ならぬそうしたことにうつつを抜かすのだ。

3-3 何か切羽詰まった感じがして、何かに急かされでもしているかのように、余裕がない。私たちの視野は限りなく狭くなり、息も絶え絶えだ。

3-3-1 ある特定のミーム空間の中にいると、そのミームに適ったものしか見えなくなる。

3-3-2 例えば、何らかの理論が特定のミーム形成のための下地となる。その理論に基づくミームが出現する。そして、そのミームのアルゴリズムに当てはまらない諸々は、そのミーム空間から排除される。無視され、見えなくなる。不都合なものとみなされる。一種の魔術であり、視野から消えるのだ。

3-3-3 また一方で、現実には存在しないものが、突如現れる。まさに夢の特徴だ。何らかの特定のミームとともに、あるものは消え、またあるものは現れる。すべてはミーム次第。そのようにして、アーリマンとルシファーは、私たちに幻想を見せるのだ。唯物論的でセンチメンタルな夢だ。その夢は私たちから生きる力を奪い、ニヒリズムへと導く。

 

4 私たちがこの地上に誕生したことは、それ自体、私たちが霊界を離れたことを意味する。また、私たちが死ねば、霊界へと戻るのだ。霊から物質へ、そして物質から霊へ。どういうわけか、誰もこのことの意味を説明しない。

4-1 たしかに人類の記憶に根差す神秘主義の文献はこの秘密を語っているが、唯物論と感傷主義に染まったミームの信奉者たちはそれを無視する。ミーム空間に霊界の秘密の入る余地はないのだ。

4-2 だから、ミームの夢から覚めなければならない。ニヒリズムに直行して、自らの魂に死をもたらさないために。

 

5 おそらく個体性という人間の在り方こそが、人間の霊である。ここに、個と全体とが、止揚される。一つの全体としての個。矛盾に見えたことが矛盾ではなくなるのが、純粋思考の一つの特徴である。ベルクソンにならって、エラン・ヴィタール/Élan vital と呼ぶこともできるだろう。

5-1 純粋思考は単独ではない。複数の、多種多様、無数の純粋思考があり、これからさらに新しい純粋思考が生まれる。純粋思考は相互に関係し合い、いわば正十二面体の調和を成す。何らかの対比が止揚され、成就すると、次が来る。

5-2 個体性の本質は、自我である。

5-3 自我こそが思考の担い手であり、自我が思考を展開する場所が魂である。

5-4 純粋思考だけが新たものを創造する。創造され、新たに生み出されたものが(いやそれは出来事なのだ)、記憶として遺る(のこる)。この記憶がカルマの本質であり、ここから輪廻転生する自我に向けて霊的衝動が発せられる。

5-4-1 つまり、人類の記憶/カルマ → 輪廻転生する自我 → 純粋思考 → 出来事 → 人類の記憶/カルマという一連のサイクルを観察することができる。霊的生命の循環、展開のように。

5-4-2 自我が硬直し、殻にこもり、硬化するならば、このサイクルは止まる。そんなことにはならないだろうが。

 

6 ルドルフ・シュタイナー「キリストの行為と、キリストに敵対する霊的な力としてのルシファー、アーリマン、アスラについて」(1909年3月22日 ベルリン)より引用

 

“ご存知のように、かつての土星においてはトローネがみずからの実質を注ぎ込み、人間の物質体の最初の基礎が作られたことによって人間は進化しました。また、そのあとの太陽では、知恵の霊たち(キュリオテテス)が人間にエーテル体(生命体)を与え、さらに月においては運動の霊たち(デュナミス)が人間にアストラル体を与えたということも、私たちは知っています。さて、そのあとの地球では、人間が自分自身を周囲の環境から区別することによって、ある種の自立した存在となることができるように形態の霊たち(エクスシアイ)が人間に自我を与えることになりました。しかし、たとえ人間が形態の霊たちのおかげで外界に対して - つまり地球上で人間を取り巻く環境に対して - 自立した存在になっていたとしても、形態の霊たちの力に頼っている以上、人間が形態の霊たちそのものに対して自立した存在になることはなかったでしょう。人間は形態の霊たちに依存したままの状態に留まり、形態の霊たちの糸に導かれ、支配されたことでしょう。しかし実際には、そのようなことは起こりませんでした。人間が形態の霊たちに完全に依存しないで済んだのは、ある意味において、「レムリア時代にルシファー存在たちが形態の霊たちに対立した」という事実が遺した善い影響なのです。これらのルシファー存在たちは、人間に自由を継承する権利を与えました。もちろんルシファー存在たちは、それとともに人間に悪の可能性も  - つまり感覚的な情熱や欲望に陥る可能性も - 与えることになりました。いったい、これらのルシファーの霊たちは何に介入したのでしょうか。ルシファーの霊たちは、そのとき存在していたものに、最後に人間に与えられたものに介入しました。つまりルシファーの霊たちは、当時ある意味において人間の最も内なるものであったアストラル体に介入したのです。ルシファーの霊たちは人間のアストラル体の中に巣食って、それを手中に収めました。もしルシファーの霊たちがやってこなかったら、形態の霊たちだけが人間のアストラル体を占有したことでしょう。形態の霊たちはこのアストラル体に、人間にふさわしい顔を与えるための力を刻み込んだことでしょう。このような力は、人間を神々や形態の霊たちと同じような姿にしたはずです。もしルシファーの霊たちがやってこなかったら、こうしたものがことごとく人間の中から生まれたに違いありません。しかしこの場合、人間は永遠に、一生の間これらの形態の霊たちに依存し続けたことでしょう。

しかし実際には、ルシファー存在たちは、人間のアストラル体の中に忍び込んできました。その結果、アストラル体の中では、二つの種類の存在が作用することになりました。すなわち人間を進化させようとする存在と、人間が無条件に進化するのを妨害し、その代わりに人間の自立性を内的に強固なものにした存在が、人間のアストラル体の中で活動することになったのです。ルシファー存在たちがやってこなかったら、人間はアストラル体に関して、無垢で純粋なままの状態に留まったことでしょう。激しい情熱が - それは地上以外では見出すことができないものに対する欲望をかきたてます - 人間の中に現れることもなかったでしょう。ルシファー存在たちは情熱や衝動や欲望を、いわば濃密で低級なものにしたのです。もしルシファー存在たちがやってこなかったとしたら、人間は絶えず故郷に - つまり自分がそこから降りてきた霊的な領域に - 憧れ続けたことでしょう。人間は地上で自分を取り巻くものが好きになれず、地上で受ける印象に関心を抱くことはできなかったことでしょう。ルシファーの霊たちの力によって、人間は地上の印象に対して関心や欲望を抱くようになりました。ルシファーの霊たちは、人間の内奥やアストラル体に潜り込むことによって、人間を地上の領域へと押しやったのです。このとき、人間が形態の霊たちや高次の霊的な領域全体に完全に離反しなかったのは、いったいなぜでしょうか。人間が完全に感覚的な世界の関心や欲望のとりこにならなかったのは、何の力によるものなのでしょうか。

それは、人間を進化させようとする霊たちが、ルシファー存在たちに対抗する手段を講じることによって可能となりました。これらの霊たちは、本来含まれていなかったものを人間存在の中に混入させることによって、ルシファー存在に対する対抗手段を行使しました。つまり人間を進化させようとする霊たちは、人間存在の中に病気や、悩みや、痛みを混入させたのです。このことが、ルシファーの霊たちの行為に対して、必要なバランスを回復させることになりました。

ルシファーの霊たちは、人間に感覚的な欲望を与えました。これに対抗して、高次の存在たちは、人間がこのような感覚的な世界に無制限に落ち込むことがないように、ある種の対抗手段を用いました。つまり高次の霊たちは、感覚的な欲望や感覚的な関心には病気や苦しみが伴うようにしたのです。その結果世界には、物質的な、あるいは感覚的な世界に向けられた関心と、同じ数の悩みや痛みが存在することになりました。感覚的な世界に対する関心と、それに対応する悩みや痛みは完全に均衡を保っています。この世界で、両者のうち一方がより多く存在するということはありません。つまりこの世界には、病気や痛みとまったく同じ数だけの欲望や感覚的な情熱が存在するのです。レムリアの時代にルシファーの霊たちと形態の霊たちは、敵対関係に立ちながら、相互にこのように作用し合いました。これらのルシファーの霊たちがやってこなかったとしたら、人間がこれほど早く地上の領域に降りてくることはなかったでしょう。感覚的な世界に対する情熱や欲望を抱くようになったために、人間はより早い段階で、目を開けたままの状態に保ちながら、感覚的な存在に取り巻かれた周囲の世界全体を見ることができるようになりました。もしあらかじめ定められたとおり、進化を導く霊たちに従っていたならば、人間はアトランティス時代の半ばから、ようやく周囲の世界を見ることができるようになったでしょう。しかしこの場合には、人間は今日のように感覚的に周囲の世界を見るのではなく、霊的に世界を見るようになったはずです。人間は、それがことごとく霊的な存在の表現であるかのように、周囲の世界を見たことでしょう。ところが人間がルシファーの霊たちに誘惑されて地上の領域へと引き降ろされたことによって、そして地上的な関心と欲望が人間を下へと押しやったことによって、本来アトランティス時代の半ばに起こることになっていたものとは別の事態が生じたのです。”(ルドルフ・シュタイナー『悪の秘儀 アーリマンとルシファー』松浦賢訳 イザラ書房 p. 59~64)

 

6-1 ルシファーがアストラル体に入り込み、人に向かってささやく。「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。人は答えて言う。「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。ルシファーは人に言う。「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

6-1-1 “女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。”(「創世記」第2章)

6-1-2 その木の実はおいしそうで、美しく映えて、栄養に富んでいるように見えた。それを食べることによって、人はきれいでリッチな雰囲気を漂わせるその実のリアルなおいしさを体験した。視覚と味覚が開け、共感覚となって、彼らの他の地上的な感覚も開いた。ルシファーは人間に地上の事物に直結する感性/感覚をもたらした。

6-2 形態の霊(エクスシアイ)は人間に自我を与えた。形態の霊の直系の自我だ。自我はルシファーの誘惑/試練を経験する。

 

* “さてわれわれは人間の血が成立した時点がどこにあるかをすでに知っている。すなわちそれは人間が独立した存在として外界に向かい合い、外界から受け取った感覚内容をもとにして心象世界を創造し、この創造行為の中で自我もしくは自己意志が目覚めにいたる時点であった。このプロセスがまだ可能ではない場合、どの高等動物も自分で自分のことを「私」ということができない。だからわれわれは、人間の血の中に「私」を成立させる原則が働いている、ということができる。自我(「私」)の存在は、外界から得た感覚内容を自己の内部で表象像として再生産できた場合にのみ、自己を表現することができる。「私」であるためにはこの表象像の体験が前提となる。もし人間が単に脳髄だけを所有していたなら、外界の印象を自己の内部で生産し、それを体験することはできるだろう。しかしどのような主観的色合いで染められたにしても、その像は外界の像であるにとどまる。外界の像を自分自身に固有の表象像として再生産するときにはじめて、その像は外界の反映であるにとどまらず、自我の表現となり、「私」そのものになる。単なる交感神経だけの存在は、「上なる」世界を映し出しはしても、これを自分の内面生活とは感じない。脊髄と脳髄を所有する存在となってはじめて、この映像を自己の内面生活と結びつけて感じる。しかし人間は血を所有することによって、自分の内面生活を自分に固有の世界として体験する。この人間固有の世界が、血を通して、一方では外界の酸素の助けをかり、他方ではこの内面世界の法則に則って、人体の形姿を形成するのである。この形成過程は「私」の自己表現であるということもできる。「私」は二つの側面に向い合っている。内に「私」の眼差しが向けられ、外に「私」の意志が働く。「上なる私」のこの態度の外的表現が「下なる血」なのである。血もまた内に向ってアストラル体から形成力を得、外に向って外界から酸素を摂取する。人間は睡眠状態に入ると、無意識の中へ下降し、血の中のこの形成力の働きを直接体験する。しかし覚醒時には、血が脳と感覚器官の産み出す像を形成力に変える過程を体験することはできない。このように血は内的心象世界と外的形象世界との中間に位置する存在なのである。”(ルドルフ・シュタイナー『血はまったく特製のジュースだ』高橋巖訳 イザラ書房 p. 83,84)

 

6-3 「ルシファー存在たちは、人間に自由を継承する権利を与えました。もちろんルシファー存在たちは、それとともに人間に悪の可能性も  - つまり感覚的な情熱や欲望に陥る可能性も - 与えることになりました。」「ルシファー存在たちは情熱や衝動や欲望を、いわば濃密で低級なものにしたのです。」「ルシファーの霊たちの力によって、人間は地上の印象に対して関心や欲望を抱くようになりました。」

6-3-1 ルシファーの誘惑を経て、人間は情念の炎に駆られるカインの末裔となった。

6-4 ルシファーの介入によって、極めて地上的になった自我は、感性/感覚の刺激に囚われる。本来の故郷である霊界から遠ざかる。

6-5 それでも人間は、「形態の霊たちや高次の霊的な領域全体に完全に離反しなかった」。

6-5-1 いずれにしても、人間の本来の故郷は霊界なのだ。

6-6 「ルシファーの霊たちは、人間に感覚的な欲望を与えました。これに対抗して、高次の存在たちは、人間がこのような感覚的な世界に無制限に落ち込むことがないように、ある種の対抗手段を用いました。つまり高次の霊たちは、感覚的な欲望や感覚的な関心には病気や苦しみが伴うようにしたのです。」

6-6-1 「人間が感覚的な世界に無制限に落ち込む」なら、それは故郷を見失うことを意味する。そうならないように、「高次の霊たちは、感覚的な欲望や感覚的な関心には病気や苦しみが伴うようにした」。病気や苦しみの先には死の深淵がある。つまり、感覚的な欲望や感覚的な関心の世界、地上の世界に生きることにより、人間は感覚的生の濃密性、体的・魂的生の濃密性、物質的・魂的個体性の生々しい現実を知るのである。

 

7 ルドルフ・シュタイナー「キリストの行為と、キリストに敵対する霊的な力としてのルシファー、アーリマン、アスラについて」(1909年3月22日 ベルリン)より引用(続き)

 

“このような事態が生じたために、人間が見たり理解したりすることができるものの中に、アーリマンの霊たちが - この霊たちを「メフィストフェレスの霊」という名称で呼ぶことも可能です - 混ざり込むことになりました。そしてそのことによって、人間は誤謬の中に、つまり「意識的な罪」と呼ぶことができるものの中に陥ることになったのです。そのために、アトランティス時代の半ばから、アーリマンの霊の集団が人間に働きかけるようになりました。このようなアーリマンの霊の群れは、何を目指して人間を誘惑したのでしょうか。アーリマンの集団は、人間が周囲の世界に存在するものを物質的に受け取るように、すなわち人間がこのような物質的なものを通して、物質的なものの真の根拠である霊的なものを洞察することがなくなるように人間を誘惑しました。一つ一つの石や、一本一本の植物や、一匹一匹の動物の中に霊的なものを見るならば、人間が誤謬の中に、そしてそれとともに悪の中に陥ることは決してないでしょう。人類の進化を先導する霊たちだけが人間に働きかけたならば、人間は感覚的な世界が語りかけてくるものだけを頼りにする場合に常に陥ることになる、あの幻影からずっと守られ続けたことでしょう。

では、人間を絶えず進化させようとするあの霊的存在たちは、そのような誘惑に対抗して - つまり感覚的なものから生じる誤謬や幻影に対抗して - どのような手段を講じたのでしょうか。人類を進化させようとする霊たちは、誤謬と罪と悪を克服する可能性を感覚的な世界の中から再び獲得することができるような状態に、人間を置くことを試みました。もちろん人間はゆっくりと、少しずつ、このような状態に置かれていったわけですが、「なぜこのようなことが起こったのか」ということの背後には、霊的な力が存在しています。つまり人間を進化させようとする霊たちは、「カルマを担い、それを作用させる可能性」を人間に与えたのです。人類を進化させようとする存在たちは、ルシファー存在たちの誘惑によって生じた損害を埋め合わせなければならなかったので、世界に悩みと痛みを、そしてまたそれと結びついた死をもたらしました。それと同じように、人類を進化させようとする存在たちは、感覚的な世界に関するアーリマン的な誤謬の中から流れ込んでくるものを修復しなければならなかったので、人間に「みずからのカルマによってあらゆる誤ちを再び取り除き、自分自身が世界の中に引き起こしたあらゆる悪を再び消し去る可能性」を与えたのです。もし人間が悪のみに、誤謬のみに陥っていたら、何が起こったでしょうか。そのときには、人間は少しずつ、いわば誤謬と一体になり、進化することができなくなったことでしょう。なぜなら誤謬や、嘘や、幻影を生じさせるたびに、私たちは進化の道筋に障害物を置くことになるからです。もし誤謬や罪を訂正することができないならば-つまり真の人間の目標に到達することができないならば-、私たちは誤謬や罪によって障害物を生じさせた分だけ、絶えず進化の道筋を後退し続けることになるでしょう。もし罪や誤謬に対立する諸力としてのカルマの力が作用しないならば、人間が本来の目標に到達することは不可能になるでしょう。

・・・

もしカルマがなかったら、私たちが人生の歩みにおいて前進することは不可能になります。カルマは、「私たちは一つ一つの過ちを再び償わなければならない。私たちは進化とは逆方向に向かう自分が行った行為は、すべて消し去らなければならない」という恵みを私たちに示してくれるのです。このようにカルマは、アーリマンの行為の結果として現われたのです。

”(ルドルフ・シュタイナー『悪の秘儀 アーリマンとルシファー』松浦賢訳 イザラ書房 p. 64~67)