“僕はもともと、一つの流派に忠実であることは間違いとは思わなかったが、偏ってはだめだという意識を持っていた。ドイツにはドイツの、フランスにはフランスの立派なピアニズムがある。我々日本人は、そのいずれも自分の血のなかには持っていない。本来、自分のなかに追及するには、むしろ意識して多角的に学んでいかねばならないと思う。さまざまな流派を知ったうえで、ある一つのものに焦点を定めるのならばわかるが、知らないまま、自分がたまたま勉強した流派に拘泥して、ウィーナー・シューレだとかフランス流だとか、ロシア・ピアニズムという名前を標榜する傾向があるが、疑問に思う。
僕の最大の強みは、一つの流派なり門下の関係にとらわれないで、さまざまなものを咀嚼(そしゃく)して自分のものにしてきたことだ。それがあるからこそ、演奏活動を続けてこられたのだと思う。”(園田高広『ピアニスト その人生』 春秋社 p. 83)
“また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。・・・”(「創世記」第2章)
あなたが一人でい続ければ、あなたはやがて狂気に至る。それでもあなたがまだ一人のままなら、あなたがその狂気から戻ってくるチャンスは訪れないだろう。
あなたの隣に誰かがいて、多くの時間を共に過ごしていれば、その中で二人の間に対話が成されるようになる。
その対話の中で、二人の魂に巣食ったミームがぶつかり合う。悟性魂/心情魂のいわば修羅場だ。両者のエゴイズムがむき出しになり、情念の炎が吹き上がる。
この修羅場を乗り切り、生き抜いていくためには、いずれにしても、あなたとその人とが各自の魂を縛りつけて離さないミームをそれぞれ自力で外化しなければならない。さもなければ、あなたたちは二人とも情念のミームの炎にあらゆるネガティヴな感情を焚きつけられ自滅するだろう。
さて、二人の対話の中でお互いのミームが衝突すると、それぞれのミームの相対的な限界が浮き彫りになってくる。このミームからではそのミームは理解できない。もちろん、そのミームもこのミームを理解しない。
各ミーム間の恐るべきディスコミュニケーション状態が、白日の下にさらけ出される。
ともあれ、「神は言われた」のである。「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」と。
アダムである人が、男であるとか、その助け主エヴァが女であるとか、地上の言葉でいくら反芻したところで何の意味もない。それよりは、「アダムは男であり、同様に女だった。エヴァも同様に。つまり、アダムはエヴァであり、エヴァはアダムだった」と言ってみた方が、ずっと愉快である。
いずれにしても、幸運なことに、人はこの地球上に一人ではない。運がよければ、隣に誰かがいる。
そして、この点が重要なのだが、あなたは一人で人類の記憶を担うのではない。この地上に生きる私たち皆が、それを担っている。
私たちの自我を経由して、人類の記憶から霊的な衝動が流れてくる。