例えば、外国語でその国のだれかある人の名前をささやいてみる。その人がそばにいてもいなくてもいい。自分の口から外国の人のその名前が発せられるのを感じて、あなたはそのとき何を思うだろう・・・。
あるいは、ピアソラのオブリビオンをパク・キュヒ(ギター)とパク・ジョンソン(ハーモニカ)が演奏している。ピアソラはアルゼンチン出身、演奏している二人は韓国人だ。ピアソラの純粋思考を二人の朴がリアライズする。私はピアソラによって記譜され、キュヒとジョンソンが音エーテルの中に再創造したその純粋思考によって魂をとらえられる。
そこに音楽としての純粋思考があるか否か、そこがポイントである。
純粋思考は魂をとらえる。魂に純粋思考のための準備ができていれば。
魂の準備とは・・・それは魂が自ら純粋思考を成す器となっているか、そのように成熟して、要するに霊の器と成り得るまでに至っているか。
純粋思考を成すにあたって大きな障害となるミームの霧が晴れているか。
例えば音楽が聞こえてきても、ミームに囚われた魂は、悟性魂/心情魂に由来するありとあらゆる比較や批評めいたことを始めて、その音楽の中に律動する純粋思考の姿と振る舞いに気づかない。
音楽体験の本質は、音楽作品の中に生きる純粋思考を、自らの純粋思考によって把握し、理解し、感受することである。
音楽という芸術に限らず、芸術体験においては、悟性魂/心情魂に特徴的なセンチメンタリズムとエゴイズムを超越した何ものかが魂をとらえて、多くの場合、魂を震撼させて、人が新たなあなた、新しいわたしとして生き始めるための生命を賦活する。そのような霊的体験を人は成すのだ。
唯物論と資本主義の爛熟度合いがいや増す現代において、私たちはこうした芸術体験や霊的体験を日々経験しながらも、自らが成すこうした生活上の経験が実のところ何であるのか、自らと他者に対して説明する語彙を獲得しているとは言えない。
少なくとも、この地上の生活を営みながら思考するために、適切な語彙、事柄の性質に応じた適切な語彙はなくてはならない。
ミームが提供する語彙は、そのままでは、純粋思考する際に役に立たないどころか大きな障害となる。だから、ミームのアルゴリズム/語彙体系を脱構築する必要が出てくる。
ミームのアルゴリズムを脱構築することにより、悟性魂/心情魂のいわゆる論理が弛むのである。
このような脱構築の作業自体がすでに純粋思考の営みである。