例えば、ある作曲家が自らの魂に訪れた純粋思考を譜面に記録する。
その譜面が純粋思考そのものではないが、純粋思考の記録ではある。
時に作曲家は、純粋思考が訪れるのと同時に、例えばピアノでそれを演奏するかもしれない。その時点で、その純粋思考はまだ譜面に記録されていない。
どんな作曲家も、多かれ少なかれ何らかのミームに囚われており、その意味でインプロヴィゼーションにはどこか因習的な部分が残ってしまうことは避けられない。
だから、作曲家が自らの魂に訪れた純粋思考を的確に記録するつもりならば、何度も記譜を試み、いわば推敲する必要がある。
魂が霊に向き合っているのだから、これはやむを得ない。
魂は霊への接近を何度も繰り返すのだ。
これがいわば、芸術家の宿命なのだ。
そしてこのような芸術家の姿は、この地上を生きる私たち自身の本来的な姿でもある。
霊も魂へと至る道を、そしてさらに体へと至る道を・・・
・・・鏡としての魂/意識。
魂のこの仮象性を止揚するために、純粋思考が働く。
魂の空間/鏡に何かが映る。
その何かは、鏡の中に在るわけではない。
鏡には、その何かがいわば映像として、イメージとして映っているにすぎない。
鏡をのぞき込む角度を変えれば、鏡に映るものの姿も変わる。
だがそれにしても、いったい誰が鏡をのぞき込んでいるのか?
このように問うと、必ずその問いが循環する。メビウスの環のように。
“ブラッド氏は、いろいろと麻酔による啓示の輪郭を描こうと試み、それを稀に見る文学的に優れたパンフレットとして私費で印刷し、アムステルダムにおいて自分で配布した。ゼノス・クラークという哲学者は、十九世紀の八〇年代にアマストで夭折し、彼を知る人々から惜しまれた人であるが、彼もこの啓示に感銘を受けた。彼はかつて私にこう書いてきた。「まず第一に、ブラッド氏と私とは、啓示が、どちらかといえば、非感情的であるという点で意見が一致しています。啓示は全く平板です。ブラッド氏の言うとおり、それは『現在が過去によって後から推し進められ、空虚な未来によって前方に吸い寄せられるのはなぜか、あるいは、なぜか、ではなくて、どんなふうにしてか、ということについての唯一の満足な洞察です。それは避けようのないものですから、どんなに停めようと試みても停めることはできず、その原因もどう説明しようもありません。それはすべて先行するもので、前提です。そしてそれについて問いを立てることは永久に手おくれです。それは過去の創始です。』ほんとうの秘密は、『いま』がおのずから剥げ落ちつづけて行きはするが決して逃げ去ってしまうことのないような方式でしょう。いったい、存在をどこまでも剥げ落ちつづけさせるものは何なのでしょう?どんなものの形式的存在も、その論理的定義も、静的です。ただの論理にとっては、どの問いにもそれ自身の答えが含まれています - 私たちは、ただ自分の掘った穴を掘り出した土で埋めるだけのことです。二の二倍はなぜ四なのですか?事実、四は二の二倍だからです。このように、論理は人生においては推進力をもっていません。ただ惰性をもっているだけです。それは進むから進むだけのことです。ところが啓示は付け加えます。すなわち啓示は進行であり、進行であったから進むのです。あなたは啓示のなかではいわばあなた自身のまわりをぐるぐる歩いているのです。普通の哲学は自分自身の尻尾を追っかける猟犬に似ています。追っかければ追っかけるほど、先へ進まねばなりません。そして鼻は決してその尻尾にはとどきません。鼻は永久に尻尾より前方にあるからです。そのように、現在はすでに既往の結論であって、それを理解するには私はいつも遅すぎるのです。ところが、麻酔から醒めた瞬間には、ちょうどそのとき、生活をスタートする前に、私はいわば私の尻尾をちらりと見るのです。スタートするというまさにその行為そのもののなかに永遠の過程をちらりと見るのです。私たちが出発する前にすでに終了してしまっている旅行に旅立つ、というのが真相なのです。そして哲学の本当の最終目的というものは、私たちが私たちの(すでにそこにある)目的点に到着するときに完結するのではなくて、私たちがいつまでも私たちの目的点に留まっているときに完結するのです。-そしてそのような目的点は私たちが知的な問い方をやめるときに、その代償としてこの人生に現われることができるのです。これが、なぜ啓示の顔には微笑が浮かんで見えるかの理由なのです。その微笑は私たちが永久に半秒だけ遅すぎることを私たちに告げています - それだけのことです。もしあなたが秘訣(こつ)さえ知っていたら、『あなたは自分自身の唇に接吻することもできるでしょうし、すべての楽しみをあなた自身のものにすることもできるでしょうに』と、その微笑は言っているのです。あなたの唇が、あなたが廻ってゆくまでそこにじっとしていてくれさえしたら、わけのないことでしょうに。なぜあなたはなんとかして、そうやってみようとしないのですか?」”(W・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』下 桝田啓三郎訳 岩波文庫 p. 197,198)
通常、私たちの魂/意識を支配しているものは、ミームである。
ミームがミームをのぞき込み、そこに映った自らの姿を見ている。
のぞき込んでいるのがあなたではなく、あなたに乗り移ったミームだと気づけば、それが啓示だ。
言うは易く、成すは難し。
気づきが啓示なのだ。いったいだれが気づくというのだ?
「わたしはそれではない」と気づくことはなかなかできない。そもそも「わたしはそれではないかもしれない」などといったいどこのだれがほのめかすだろうか。ミームはそんなお節介はしない。ミームにはそんなアルゴリズムは組み込まれていない。ミームはただ自らを絶対化するのみだ。
これが悟性魂/心情魂の浮かばれない現状である。
どこまでもミーム、ミーム、ミームである。
あなたはあなたの魂の鏡に映ったミームの夢をいつまでも見続ける。
その夢見から覚めよ。
その夢から覚めると、あなたの周囲に霊の国が姿を現す。
ミームはミームと響き合う。そのように響き合うアルゴリズムがミームには組み込まれている。
あるミームは別のミームと対立する。対立し合うミーム同士に相互に融和し共鳴するためのアルゴリズムは組み込まれていない。
ミームは別のミームと協調し、また別のミームと対立する。
いずれにしても、ミームはただアルゴリズムに従うにすぎず、生きた思考はそこにはない。意志的な思考はそこにはない。
ミームは他のミームと符合したり、対立したりするが、そこに生きた思考は働いていないから、理解という思考の働きは問題にならない。範疇にない。
ミームを以てしては、他者の成す純粋思考を理解することはできない。
純粋思考を理解するためには、自ら純粋思考を成さなければならない。
純粋思考はミームの嘘を見破る。その虚構を俯瞰する。
ミームに囚われているかぎり、その魂に自由はない。
アルゴリズムがすべてを決定する。
ミームに囚われた魂は自分の意志で行動していると思い込んでいるが、ミームと同化して、ミームの奴隷だ。
何をどう感じ、それからどう振る舞うかまで、ミームが決める。ミームに煽られ、あなたはまるで操り人形のようだ。
そしてあなたは自分がなぜそんなふうに感じ、そんなふうに振る舞うのか、その本当の理由を知らない。
あなたの思考は働いておらず、感情と意志とはミームのアルゴリズムによって自動化している。
死んだ思考を生き返らせ、ミームに依存しきった感情と意志の自律性を取りもどす営みは、一朝一夕にして成し遂げることはできない。
だが、人類の記憶は私たちに衝動を送り込む。例えば、ベートーヴェンはその霊的衝動を受けとめ、純粋思考を成し、作品を生み出した。
一つの純粋思考が成されるとその思考はやがて成就して、完結する。そして、その完結した地点から、新たな純粋思考が始まり、成長してゆく。この新しい純粋思考は、それ以前に成就/完結した純粋思考があってこそ初めて生まれたのだ。
だから、ベートーヴェンを例にとれば、彼の作品109はそれ以前に作品106がなければ生まれなかった。作品106は作品101があって初めて存在できた。作品111が作品110の次に生まれたことには、だから内的な必然性がある。
そのようにして、人類の記憶という霊的源泉から霊的衝動が発して、純粋思考を生み出し、純粋思考は新たなるものを生み出し続けて、人類の記憶を更新する。
ここでもう一度、霊 - 魂 - 体という視点からここまで成してきた思考を振り返ってみよう。
いずれにしても、純粋思考というものは何らかの包括性と俯瞰とを常に内包しているものだが、悟性魂由来の対象意識に馴染み、その制約の下にある現代人は、純粋思考の包括性に直面すると戸惑って、いわば我を忘れるのが普通である。そして、そのような霊的思考の全体を把握することができず、どうしても理解の偏りが生じてしまう。
つまり、魂は霊の全体をつかみきれないのだ。ミームによって純粋思考を成すことはできない。
霊は霊によってのみ理解される。
純粋思考は純粋思考によって理解される。
ゴルゴタの秘蹟の最終章が聖霊降臨であるという事の成り行きが既に、この霊的事実/思考の真実を証している。
ミームから見れば、矛盾し、誤謬にしか見えないのが、それは硬直して、もともと俯瞰的視野をもち得ないアルゴリズムのせいであることが、魂からすればまさに突然、明らかになる。ミームの一面性と狭量とが白日の下にさらされ、その人の眼前に見たこともない景色が広がるのだ。それは過去の繰り返しではなく、まったく新しいもの。初めて見る景色だ。
その景色を見ているあなた自身が、新たに生まれたのだ。
あなたは体なのか、それとも魂なのか。あなたは霊なのか。
体はあなたであってあなたではない。なぜなら、あなたは体を外なるものとみなすことができるからだ。
あなたは魂をも外なるものとみなすことができる。だが、魂が体のようではないことは明らかだ。
あなたが霊であるとき、あなたは霊を外なるものとみなすことはできない。しかし、あなたが魂と同化した場合、霊はよそよそしいものとなる。つまり、あなたはあなた自身を疎外する。
この驚くべき自己疎外/自己否定が、あなたの人生のいずれかの時点において、必ず起こる。
霊を忘れ、排斥して、自らを魂とみなすのは、自己認識の過程における嘆かわしい倒錯である。あなたはそのようにして心身を病み、正気を失い、生と死の淵へと至る。この境域は、あなたに気づきを促す・・・通常の生活のたががはずれて、日々の生活が立ち行かなくなる。あなたは通常の意識状態を維持することができなくなる。生の危機だ。だれの助けも得られない。死と病そして狂気が現実味を帯びて迫ってくるのがわかる。
霊であるあなたを、あなたは見出すことができるか。
あなたはいまひとりだ。だれもが自分を見失っているから、だれもあなたに気づかない。・・・やがてあなたは生と死の淵、その境域に至る。これまであなたが頼りにし、それに依存してきたすべてのミームが、この境域では何の役にも立たないことが明らかになる。
もうあなたは自分をだまし続けることができない。付け焼刃のような嘘を並べても意味がないことは明らかだ。煮詰まったのだ。だが、あなたは死にはしない。
人類の記憶から霊的衝動が打ち寄せるから。あなたは自分の中にそれが湧き出ており、それがこみ上げてくるのを、やがて感じる。