過去から未来に向かって流れるかに見える、その時間は、ミームに由来する仮象/錯覚/イメージである。
ミームには、過去に由来する文脈イメージが集まっており、人はそのような文脈イメージの、いわば予定調和の中で、あっちに行ったり、こっちに来たりする。
このようなミームのアストラル空間の中では、いわば、この道を行けばあそこに辿り着く、また別の道を行けば、また別のあそこに至る、というように、はじめから出発点とゴールが決まっている。
つまり、ミームの中では、過去が繰り返されるだけで、新しいものは何も生まれない。この道は、いつか来た道、という感慨しかないのである。
ミームはそのイメージとしての性格によって、人間の魂の内に(アストラル)空間を作り出す。
そして、過去が繰り返されるという、文脈イメージの特性から、過去から未来へと流れるかに見える錯覚としての時間を作り出す。
つまり、仮象としての個々のイメージが拠って立つ(よってたつ)枠組みとして、ミームは時間と空間を作り出すのである。
イメージは、思考ではないし、正確には思考の産物であるとも言えない。
イメージは、思考とは異なり、人間の個/自我に由来しない。
イメージの故郷は、人間の個/自我ではなく、完全に非個人的な/集合的なミームである。
そのような非個人的なるもの、ミームから、イメージが生まれ、そこに人間の自我による思考は働いていない。
ミームの生み出す幻としての時間と人類の星の時間とは、直接的な連続性をもたない。
ミーム由来の仮象としての時間は、本来的に霊的性質をもつ人間の自我由来の出来事としての、人類の星の時間とは異質である。
人間の自我由来の出来事と言える人類の星の時間は、人間のエーテル体を介して、記憶に刻まれ、コーザル体としてカルマ的に機能する。
それに対して、ミーム由来のイメージとイリュージョンとしての時間は、その性質上、エーテル体とは無関係である。
ミームは、繰り返しと惰性、つまりもうわかりきった結末しか用意しない。やる前からもう結果が見えている。予定調和のありきたりの結果で満足して、それに酔っていることができるのは、・・・やる前からもう飽きている。
そのような不毛さに魂が疲弊して、若々しさを失う。そこにエランヴィタール/élan vital はない。
そのようなミームの不毛性に直面した魂が、まず向かう先が、種々のフェティシズムである。今風にオタクと呼んでもよい。
例えば、オカルト・マニアというオタクたちがいる。オカルト的なものに対する彼らの接近の仕方は千差万別で多様である。
しかし、彼らの研究対象/収集対象としてのオカルト的なるものが、やはりミームの一種である。オカルト・ミームと呼んでよい。
オカルト・ミームを他のミームと対置することはできるが、オカルト・ミームが他のミームより優れているという言い方はできない。
ミーム同士は、相互に相対化され得るが、いずれのミームも過去の繰り返しであり、そこに何ら新しいものは見出されない。過去の何らかの時点にすでにあったイメージが、繰り返されているのである。既製品のコピーである。
いずれのフェティシズムも、早晩飽きて見切りをつけられるのが習いである。流行りは廃れる。既製品の真似を繰り返し続けることはできない世の定めである。
人は、カルマとともに、この世界に新しいものをもたらす。カルマとともに、出来事が起こるのだ。
その時、人は人類の星の時間の中にある。出来事と人類の星の時間とは、同じである。出来事の積み重ねが歴史である。
つまり、人類の歴史とは、他ならぬ人類の星の時間の中で、生み出されるものなのだ。
ミームの側から、人類の星の時間を見やることはできない。その顔(かんばせ)と身振りとを、見やることはできないのだ。
『洗礼者聖ヨハネ』(レオナルド・ダ・ヴィンチ)