ミームが消えると、そこに、人類の星の時間がある | 大分アントロポゾフィー研究会

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今/ここ/そこが、人類の星の時間だと気づいたとき、

わたしの内にも外にも、ミームはなかった。

ミームが消え、時間が消えたのだ。

わたしは、とある外食チェーンのレストランで、牡蠣フライを食べていたのである。

人類の星の時間にあって、牡蠣フライを食べるという贅沢(ぜいたく)。

この後、温泉に浸かるという計画は、妻の体調不良のため(彼女の(よくある)自己申告)、なしになった。なしになった。

・・・それはなしになった。でも、人類の星の時間にあるわたしにとって、そんなことはあまり大したことではない。

 

人類の星の時間にある人間は、相対的な幸福ではなく、絶対的な幸福を得る。

ミーム人間は、相対的な幸福を得るかもしれないが、抗いようもなく、常にルシファー的悲惨の中にあり続ける。彼が、絶対的な幸福を見出すことはついぞない。彼は、自分を不幸にし、他者をその不幸に巻き込む。ミームという文脈イメージの、これがその悲喜劇の予定調和だ。

そこでは、実のところ、何の出来事も起こらない。

ミームの空間にあるのは、ただイメージのみ。その空間に何か目に映るもの/イメージがあるので、人は自分が目覚めて、そこにある、という感覚に囚われる。

言ってみれば、それは、いわば、アーリマン/ルシファーの魔術である。言ってみれば、そこは死の世界である。

そこには、生きている存在、つまり霊的存在はいない。そこは、まさにアーリマン/ルシファーの夢幻の世界に他ならない。

 

アストラル的幻影は、記憶に残らない。

なぜなら、記憶とは、思考がエーテル体に刻印を残すものだからである。ちょうど、出来事が記憶に残るように。