”人間がくたびれた時や、くたびれを取り越してあと一歩でというところに差しかかると、脳のほうも相当おかしなことを始めることがある。
ある人が、ヨットで時化(しけ)にあった。
午前二時にウォッチ交代のため眠気と疲労、船酔いと吐気をこらえながら、コックピットに這い出そうとして、ふと下を見ると真新しい日記帳がある。見たこともない奇麗なノートブックに確かに自分の字で、書いた覚えのない記載がある。眼をこらしてよく見ようとすると、風が吹いてきてページをパラパラとめくり、そこにまた書いた覚えのない文章が現れる。
精神科医はこういうのを入眠時幻覚という幻視の一種だと言ったり、この幻の中身に「解釈」を加えて、真新しいノートブックは女の下着であるだの、「書いた覚えのない」というところに実は「覚え」が隠されていて、それは意識閾下の罪意識だ、などと言う。
脳は、なんと言うか?
「ここで出しているのは、間に合わせだ」と言いそうである。
ようするに、何か絵を出さなければいけないことになったので出した。映画のフィルムがひとコマふたコマ跳んでしまった。急いで何かの映像で穴を塞いでおかないと、映写機が火事になる。あるいは、高速輪転機を回している時に、用紙が数枚抜けていて、そのままでは壊れてしまうから、手近の紙をはさみこんだ。そこに何が印刷されているかは、どうでもよい。”(計見一雄『大人のための精神病理学 脳と人間』三五館 p. 9,10)
さて、ここで計見一雄が提示してみせているような事態は、はたして生活上の緊急事態に限って、起こるものなのだろうか。実のところ、私たちが受肉を経て、この地上の世界に生きているということ自体、人類史の近現代を生きる誰も、本当には了解などしておらず、説明もできてはいないのだ。
つまり、言ってみれば、私たちの日々の生活の一刻一刻が、とんでもない緊急事態に他ならないのである。
計見が描いたような、時化にあった船乗りが見た幻視を、私たちは日々の生活の中で、日常的に見ているのだが、ただそれを私たちは幻視だとは思っていないだけなのだ。私たちは、それを現実だと思い込んでいるのである。
そのようないわゆる日常的な幻視/生活上の幻視を生み出す主体は、ミーム/文脈イメージである。
私たちは、通常、ミーム/文脈イメージと同化しており、そのように同化した部分を、悟性魂/心情魂と呼ぶ。
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1 私たちは、記憶を想起する。ただし、その都度想起される記憶、個々の出来事の記憶とみなされる思考内容は、想起されるたびに、何らかの変容を遂げており、もはや同一の思考内容とは言えない。
1-1 つまり、記憶としてエーテル体/自我に刻印された何らかの出来事/思考内容こそが、いわば、ゲーテの言う原植物のように、エーテル体/自我の内で有機的変容を遂げてゆくのである。
1-1-1 外なる霊/精神と内なるエーテル体/自我とが、この地上の世界で交錯するところに、出来事が生起する。
1-1-2 出来事において、Es/それ に宿る神々の純粋思考と、人間(Ich/わたし、Du/あなた)の成す純粋思考とが、共振/共鳴する。
1-1-3 Es/それ に宿る神々の純粋思考を、神々にとって他者であり外部である人間が恣意的に操作することはできない。人間は、神々の純粋思考に真摯に向き合い、対峙し、そして受容する。人間は、自ら成す純粋思考によって、それを成す。
2 Es/それ は、鉱物界、植物界、動物界、そして人間の肉体/物質体にまで至る。つまり、私たちの肉体/物質体は、Es/それ に属する。Ich/わたし が、Es/それ としての肉体/物質体に到達するためには、アストラル体/エーテル体を通ってゆかねばならない。
2-1 アストラル体は何に由来するのか。エーテル体は何に由来するのか。
2-1-1 ともに霊界/精神界に由来し、アストラル体は人間に魂を、エーテル体は人間に生命をもたらす。
2-1-2 アストラル体には、ルシファーが浸潤し、人間はそれによって感性において過敏/過剰になる。
2-1-3 エーテル体が人間にもたらす生命のネガとして、肉体/物質体に素材を提供する鉱物界から、重力/死の力/アーリマンが上ってくる。
2-2 だから、人間は過敏になった感性を鎮め、情緒過多/センチメンタリズムに陥らないように留意しなければならない。思考によってのみ、それが可能となる。
2-3 また、アーリマンのもたらす死の力に耐え抜くためには、霊界/精神界からの、いわば、聖霊/ことば/ロゴスの補給が欠かせない。霊的生命である。
2-3-1 ヒンドゥーの伝統の中では、それはクンダリーニと呼ばれた。
3 純粋思考に由来する言語/芸術が、人間を一種のテオーリアに導くことは可能である。
3-1 つまり、その場合、人間は自らの魂のみならず、肉体/物質体をも、霊/精神に向けて方向づけるのである。
3-2 そうは言っても、このことは容易なことではない。なぜなら、本質的に Es/それ つまり、本来人間自身ではない肉体/物質体を、そのように成すことは、ものごとの性質上、基本的に無理と言わざるを得ないからである。
3-3 さて、そうは言っても、霊/精神において不可能なことは、事実上、ない。物理的に不可能に見える/思われることが、霊/精神においては、可能となる。ミーム/悟性魂/心情魂の外に出ると、それまでは見えなかったことが見えるようになるのだから。
3-3-1 しかし、ここにむずかしいポイントが潜んでいることを、忘れてはならない。ミームの外に出たはずが、実はそうではなく、まだミームの中にいた。また、たしかに一度は出たけれども、いつの間にか、再びはまってしまった。要するに、本当にミームの外に出て、その状態を維持し続けるのは、実にむずかしいということなのである。
3-3-2 ただし、悟性魂/心情魂から意識魂へという方向性は明確/簡明なので、鍵となるこの道程は常に意識しておく必要がある。悟性魂/心情魂から意識魂へ。ミーム/文脈イメージを抜け出して、純粋思考/霊視へ。仮象/イメージから実相/リアリティへ。
4 一見、日常言語を用いて作られた通常のテキストのように見えるものが、実は、霊性を内に秘めた純粋思考の言葉であることに、あなたは、人類の星の時間にあるときに気づく。同様に、今まで理解できなかった音楽の霊性が聴こえてくる。また、それまでうまく調理できなかったアジ寿司が、怪我をせずに、そつなく調理できるようになる。車を運転するときに、無駄な力みがなくなる。安全確認を怠りなく行っても、疲れない。「車に乗っているとき、瞑想が自然に起こる」とクリシュナムルティは言った。ならば、彼にならって、「すべての生活動作において、人は瞑想に至る」と言おう。
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