いまだ目覚めぬ意志。
ルシファーに浸潤され、ほとんど腑抜け(ふぬけ)状態に陥っている感情。
そして、アーリマン領域にあって死に瀕して(ひんして)いるかに見える思考。
私たちの魂は、いまや危機的状況にある。
唯物論/マテリアリズムと虚無主義/ニヒリズムの深淵が、魂を脅かして(おびやかして)いる。
他者との関係性がいたるところで切断され、対立と分断、そして孤立が広がる。
私たちの生活はますます無機的(むきてき)で意味を感じられないものになってくる。散文的(さんぶんてき)な状態。陳腐(ちんぷ)な悲喜劇(ひきげき)。
その場かぎりの、その場しのぎのワンフレーズが横行(おうこう)する。
パターン化したステレオタイプの使いまわしが蔓延(まんえん)する。
ほとんど腰抜け/腑抜け状態の感情は、それで安心して/それに安住して、病気の度合いを増す。心身(しんしん)の病(やまい)である(必ずしもいわゆる心身症ではない)。
霊的生命(れいてきせいめい)が賦活(ふかつ)されないのだ。
感情がその多様性の豊饒(ほうじょう)を失い、プリミティヴな反感と共感、好き/嫌いへと乾燥してゆく。
ちょうど思考がアーリマン領域にあって、yes or no だけを拠り所としていることに符合(ふごう)するかのように。
意志、つまるところそれは高次の自我と呼ぶべきものだが、この高次の自我としての意志が目覚めて、人間の魂を霊/精神の光で照らし、霊的生命を供給(きょうきゅう)し始めること。
このことなしに、人間がこの地上の世界において、霊的に復活することはあり得ない。
だが、そのことを期待していい。そのことをこそ、強く願うべきなのだ。
なぜなら私たち人間は、その魂の内奥(ないおう)に、必ず成長を遂げてゆく自らの高次の自我(の萌芽)を持つからである。
低次の自我から見たときには、高次の自我は他者であると言えるが、高次の自我から見た低次の自我は、自分の子どもだ。
あるいは、いわば、手足のようなものだ。
”・・・イエスは答えて言われた。「・・・しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない(かわかない)。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」・・・”(「ヨハネによる福音書」第4章)
霊的生命とは、高次の自我であり、その本質は、愛/アガペーに他ならない。
別の言葉では、それは、キリスト衝動である。それは、意志の本質である。
愛/アガペー、それはまさしく人間における高次の意志であり、キリストに由来する高次の衝動であるが、それなしには、思考は推進力を持つことはなく、霊/精神へと向かう力を持たないのである。
愛/アガペーは、人と人とを結びつける力である。
愛/アガペーを媒介(ばいかい)にして、「わたし」は「あなた」に出会うのである。
こうした出会いをとおして初めて、人はエゴイズムを克服することができる。
性/セックスは、愛/アガペーをとおして、聖別(せいべつ)される。
(すべて)地上的なるものは、愛/アガペーをとおして、聖別される。
愛/アガペーが、人間の肉体/物質体の内に働く霊/精神を、明らかにする。
愛/アガペーが、思考をアーリマン領域から救い出し、それによって思考は、純粋思考へと変容する。