そもそも、低次の自我などというものが、虚構(きょこう)にすぎないとしたら、・・・いやいや、実際、それは虚構なのだが、その虚構によって、私たちは、この地上世界を生きているのである。
その虚構は、鉱物界の現実を生きる。
鉱物界の現実は、虚構ではない。
鉱物界の現実と虚構としての低次の自我。
鉱物界に生きる植物と動物たち。
鉱物界、植物界、動物界に、虚構としての低次の自我が向き合っている。
そして人間は、自らの内に鉱物界、植物界、動物界を担っている。
鉱物界/植物界/動物界そして人間界を、内に担い、まさにそのことを通して、生きた肉体/物質体である私たち人間が、まるで虚構のように、影のように、幻影のように感じられるこの現実が、問題なのだ。
一体、何がこのような状態を、もたらしているのか。
重力と死の支配するアーリマン領域に縛られ、身動きがとれなくなっている思考を救い出し、生命を与え、有機化するのだ。
・・・その思考の道を行けば、人間の霊/精神が復活する。
アーリマン領域にあって、思考は二進法と二項対立(にこうたいりつ)の中を進む。
0か1、yes or no だけがある。
さらに、鉱物界の時間/空間の制約がある。
時間は、過去から未来へ流れ、三次元座標軸の外に、空間は考えることができない。
二進法/二項対立、鉱物界の時間/空間、そして重力/死の縛り。
・・・唯物論/マテリアリズムと虚無主義/ニヒリズムの深淵(しんえん)。
生き物のいかなる動き/身振りも、重力に逆らって初めて成り立つ。
重力に抗する(こうする)ものとは何か?
それは、生命であり、生命は霊/精神を志向(しこう)する。
物質体(鉱物)にエーテル体が命(いのち)/生命を付与(ふよ)する。植物的生命体が生起する。
さらにアストラル体が加わると、動物的生命体が生起する。
動物的生命体は、植物的生命体が持ち得ない魂(たましい)/アニマを発達させる。
魂/アニマは、霊/精神を志向し、人間において、自我という意識状態を生み出す。
この地上の生において、人間はすでにして、自我という魂の状態、自我という霊/精神の状態を獲得する。
つまり、人間は自我を発達させることにより、この地上の世界においてすでに、霊的存在であることを体現するのである。
さて、人間の自我は、いかにして重力/死に対抗することができるのであろうか?
それは、人間が霊/精神を志向し続けることによってである。
人間は、自らの自我を持つことによって、すでにその可能性は持っている。
生命は霊を志向し、魂は霊を志向し、その先端に自我が現れる(顕現/けんげんする)。
つまり、霊/精神志向性の最先端に、自我というものはある。
ただし、人間の自我が、自らの本来の霊性に目覚めることは、至難の業(しなんのわざ)でもある。
人間の魂において、意志は、まだ果てしなく脆弱(ぜいじゃく)である。
感情は、ルシファーによって取り返しがつかないぐらい浸潤(しんじゅん)されており、そこからあらゆる邪悪(じゃあく)なものが生み出されてくる。
そして、思考はアーリマン領域に深く嵌まり込んで(はまりこんで)、それこそ息(いき)も絶え絶え(たえだえ)の状態なのである。