思考の道をゆく -1- ~ 霊/精神を志向する自我 | 大分アントロポゾフィー研究会

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そもそも、低次の自我などというものが、虚構(きょこう)にすぎないとしたら、・・・いやいや、実際、それは虚構なのだが、その虚構によって、私たちは、この地上世界を生きているのである。

その虚構は、鉱物界の現実を生きる。

鉱物界の現実は、虚構ではない。

 

鉱物界の現実と虚構としての低次の自我。

鉱物界に生きる植物と動物たち。

鉱物界、植物界、動物界に、虚構としての低次の自我が向き合っている。

そして人間は、自らの内に鉱物界、植物界、動物界を担っている。

 

鉱物界/植物界/動物界そして人間界を、内に担い、まさにそのことを通して、生きた肉体/物質体である私たち人間が、まるで虚構のように、影のように、幻影のように感じられるこの現実が、問題なのだ。

一体、何がこのような状態を、もたらしているのか。

 

重力と死の支配するアーリマン領域に縛られ、身動きがとれなくなっている思考を救い出し、生命を与え、有機化するのだ。

・・・その思考の道を行けば、人間の霊/精神が復活する。

 

アーリマン領域にあって、思考は二進法と二項対立(にこうたいりつ)の中を進む。

0か1、yes or no だけがある。

さらに、鉱物界の時間/空間の制約がある。

時間は、過去から未来へ流れ、三次元座標軸の外に、空間は考えることができない。

 

二進法/二項対立、鉱物界の時間/空間、そして重力/死の縛り。

・・・唯物論/マテリアリズムと虚無主義/ニヒリズムの深淵(しんえん)。

 

生き物のいかなる動き/身振りも、重力に逆らって初めて成り立つ。

重力に抗する(こうする)ものとは何か?

それは、生命であり、生命は霊/精神を志向(しこう)する。

 

物質体(鉱物)にエーテル体が命(いのち)/生命を付与(ふよ)する。植物的生命体が生起する。

さらにアストラル体が加わると、動物的生命体が生起する。

動物的生命体は、植物的生命体が持ち得ない魂(たましい)/アニマを発達させる。

魂/アニマは、霊/精神を志向し、人間において、自我という意識状態を生み出す。

この地上の生において、人間はすでにして、自我という魂の状態、自我という霊/精神の状態を獲得する。

つまり、人間は自我を発達させることにより、この地上の世界においてすでに、霊的存在であることを体現するのである。

 

さて、人間の自我は、いかにして重力/死に対抗することができるのであろうか?

それは、人間が霊/精神を志向し続けることによってである。

人間は、自らの自我を持つことによって、すでにその可能性は持っている。

生命は霊を志向し、魂は霊を志向し、その先端に自我が現れる(顕現/けんげんする)。

つまり、霊/精神志向性の最先端に、自我というものはある。

 

ただし、人間の自我が、自らの本来の霊性に目覚めることは、至難の業(しなんのわざ)でもある。

人間の魂において、意志は、まだ果てしなく脆弱(ぜいじゃく)である。

感情は、ルシファーによって取り返しがつかないぐらい浸潤(しんじゅん)されており、そこからあらゆる邪悪(じゃあく)なものが生み出されてくる。

そして、思考はアーリマン領域に深く嵌まり込んで(はまりこんで)、それこそ息(いき)も絶え絶え(たえだえ)の状態なのである。