人はこの地上に生まれ落ちた、すでにそのときから、もはやブランシュではない。
いやいや、そもそも人がこの宇宙に現われた、すでにそのときから、もはやブランシュではなかったのである。
人がブランシュであったことなど、実のところ、一度もありはしないのだ。
気づいたときには、人は自分が他者と切り離され、宇宙にたった一人で目覚めていた。
この個別性ゆえに、人はすでにして、ブランシュではあり得ないのである。
人間という、もはやブランシュではあり得ない存在が、自分の周りの世界や他者を目撃するとき、驚くべき事態が生じることになる。
その人のブランシュではない諸々(もろもろ)が、目撃する周りの世界や他者から、そのままはね返ってくるのである。
外の世界だと、他者だと思い込んでいたものが、その正体(しょうたい)が、実はその人自身だ。
ブランシュではないそのような状態を、低次の自我と同定(どうてい)することは、適切である。
つまり人間は、自我(じが)/Ich という在り方を、自らの本質とする精神存在/霊なのである。
人間は、この宇宙を生き、そして成長(せいちょう)を続ける。
やがて人間は、低次の自我から高次の自我へと変容を遂げる。
キリスト・イエスは、このことについて、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(「マタイによる福音書」第28章)と語ったのである。
さて、ブランシュではない状態、つまり低次の自我というものなしには、実のところ人間は、何も所有しないのである。
そして、所有しないということは、自分の外に何も見ることができず、内的にも空虚になることを意味する。
もちろん人間は、自らが在ると感じたときにはすでに、ブランシュではないから、内的に空虚になるというようなことは、実のところ、ない。
このことを、「意識(いしき)」と呼んでもよい。
また、これ以外に、「意識」というようなものは、どこにもない、と言うことができる。
つまり、ブランシュでない状態、低次の自我、意識は、とりあえずなくてはならない。
極言すれば、それなしには、人間が、この地上の世界を生きることはできない。
・・・地上の世界を