例えば、聖書のテキストは、純粋思考の産物(さんぶつ)である。
ベートーヴェンの音楽は、純粋思考の産物である。
モネの絵画は、純粋思考の産物である。etc. etc. ・・・
そのような純粋思考のタペストリーからは、それらが由来する高次の(人類)意志/キリスト衝動が、輝き出る。
その淵源(えんげん)に、愛/アガペーがある。
それが、意志というものの本来の姿である。
そのような意志こそが、純粋思考を発動させるのだ。
私たち一人一人の高次の自我は、人類の同胞(どうほう)が生み出す、それら純粋思考のつづれ織り/タペストリーに出会うことによって、自らの本来の故郷を想起(そうき)する/思い出すのである。
(これが、自己認識という出来事の本質である。)
このような想起のことを、思考の復活と呼ぶことができる。
思考が、愛/アガペー/キリスト衝動によって、アーリマン領域からの復活を成し遂げる。
復活した思考は、純粋思考に他ならない。
そして、純粋思考とは、つまるところ、ロゴス/logos/λόγος の謂い(いい)なのだ。
”初めに言(ことば/ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物(ばんぶつ)は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
・・・言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。”(「ヨハネによる福音書」第1章)