わたしはふりかえる・・・ | 大分アントロポゾフィー研究会

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通常、人は、前にあったことや過去に経験したことをかえりみて、それらの出来事の意味を知る。

今、その渦中にあるときには、何が起きているのか知るすべは、無い。

また、当面のスケジュールを立てることはできても、ものごとが計画通りに進むことはない。

必ず想定外のなにごとかが起こって、わたしたちの地上の生活は、なにか奥深く謎めいたものになってゆく(くる)。

 

さて、・・・

 

いや、ひとつだけ道がある。

それは、人間の成長という事柄について、もう一度考えてみるということだ。

 

成長には、ただひとつの意味しかない。

それは、人間が、高次の自我へ向かって歩みを進めるということである。

とりあえずは、今生(こんじょう)において。さらに考えが進めば、いくつもの生、カルマとともに成長する霊/精神としての個人を見据える(みすえる)のだ。

 

高次の自我どうしの交感/交流/コミュニオンということを考えることができる。

人類の霊/精神の歩みを先へと進めるために、個人の霊/精神/高次の自我は交感/交流する。

高次の自我においては、「わたし」-「あなた」の関係がすべてとなり、・・・

 

高次の自我はすでに、低次の自我を脱ぎ捨て、超え出た状態にあるので、低次の自我の現実を、いわば鳥瞰(ちょうかん)することができる。

高次の自我によるこのような観察を、「透視(とうし)」と呼ぶ。

霊的に成長を遂げた者は、彼がくぐりぬけてきた/生き抜いてきた人生の歩みに照らし合わせて、他者の魂(の成長の様子)を、いわば透視することができる。これなしには、教育や育児という高度に人間的な営みは成立し得ない。

 

すぐれた指揮者が指揮すると、その指揮者が自らの高次の自我によって、オーケストラを統率し、導いていくさまが見て取れる。神業(かみわざ)と言ってよい。

(多くの場合)、オーケストラのメンバーもすぐれた音楽家ぞろいなので、指揮者の発する霊気に感応して、アンサンブルに生気がみなぎる。すでに事前の練習から、あるいは練習に入る前から、そのような交感/交流/コミュニオンは始まっているのである。

演奏会が終わって、指揮者がその場を離れても、霊/精神のコミュニオンは生き続けることができる。

 

 

さて、そのようなコミュニオンの本質は、・・・そこには、あなた/わたし の関係性が生きているのである。

 

わたし/あなた の関係性が、典型的なかたちで鮮明に見て取れるのは、恋人たちにおいてである。

親子や兄弟、さらには親しい友人同士においても、あなた/わたし の関係性が生きる。

また、言うまでもないことだが、夫婦間においてもしかり。

 

そして、これまた言うまでもないことだが、あなた/わたし の関係性というものは、意図的に成立するようなものではなく、むしろ一種の出来事なのである。予断(よだん)や憶断(おくだん)の類(たぐい)とは全く関係のない次元において成立するのである。

一種の奇跡(きせき)、稀有(けう)なことがら、この世において最高のものだ。

 

いずれにしても、あなた/わたし の関係というものは、高次の自我間においてのみ、成り立つ。

個々の高次の自我は、さまざまな成長段階を有する。個性を持つ。

低次の自我の縛りを脱け出た高次の自我たちは、いかなる成長段階にあろうと、あなた/わたし の関係で結びつく。

キリスト・イエスが、「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と語ったように、幼児と老人が、あなた/わたし の関係で交感し合ったとしても、何ら不思議はない。

 

他者に対する関心を持ち、他者を見つめ(観察し)、他者のことをよく知り、理解しようとする強い気持ちなしに、あなた/わたし の関係が生まれることはない。

恋愛感情は、他者に対する関心を高める助けになるが、恋愛感情にいつまでも頼ることはできない。

そのような強烈な感情の高まりが去った後こそ、高次の自我が成長の歩みを本当に踏み出す絶好のときなのである。

なぜならば、かれ(高次の自我)は、みずからの内に、みずからの意志と力で、いわば霊的な熱を生み出さねばならないからである。

かれ自身の霊性が問われる正に(まさに)正念場。