高次の自我は、いま/そこにある。
でも、あなたは、それに気づかない。
そのことに気づかないまま、微笑み、笑い、何かを目指して歩き、うとうとと眠り込み、また目覚めて、いつものように誰かとおしゃべりを始める。
あなたは、微笑む。笑う。
でも、気づかない。そこに、高次の自我があり続けているのを。
あなたは、苦しんでいるかもしれない。悩んでいるかもしれない。
あるいは、その反対に、何か大喜びしているかもしれない。
そんなあなたの体や、その身振りは、美しい。
でも、あなたは気づかない。あなたのその美しさの本当の意味を。
それを知らず、あなたは微笑んでいる。
低次の自我/アーリマン/ルシファーのイメージ体に囚われると、死の影が差してきて、すべてが台なしになる。
あなたは、生と死の際(きわ)に立つ。
しかし、わたしは気づいたのだ。生命の輝きと肉体の美の秘密に。
・・・霊的な魂の、それは身振りであり、それは佇まい(たたずまい)だ。
あなたは、気づかずに微笑んでいる。
・・・・・・・・・
”・・・その人は、行動するきっかけを与えてくれるものが何もない状況に置かれます。その人はまったく一人で、自分自身をよりどころとして進む道を見出さなくてはなりません。どのような事物も、人間も、その人にある行動を取るようにうながすことはありません。当人以外のどのような事物も、人間も、その人が必要としている力を与えることはできないのです。この力を自分自身のなかに見出さない限り、その人はたちまち、前に立っていた地点にふたたび戻ることになります。・・・今回の第三の試練では、秘儀参入を志す人は、自分自身のなかにすみやかによりどころを見出さなくてはなりません。なぜならその人は今回、言葉の真の意味において、自分自身の「高次の自己」を発見しなくてはならないからです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 P.88,89)