「物自体/Ding an sich」と「それ/Es」 | 大分アントロポゾフィー研究会

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現代に生きる私たちの自然科学的思考は、ものごとの物質的/鉱物的依り代(よりしろ)を求める傾向が過剰である。つまり、カントのいわゆる「物自体(ものじたい)Ding an sich」を、それが単に物質的/鉱物的なものであるという前提で、追い求めているのである。そして、何らかの神経伝達物質や脳の特定の部位、アレルゲン、素粒子の類が「発見」されたら、そこで終わり。科学者たちは「これですべての謎が解明された」とか「これ以上追及しても意味はない」などと嘯いて(うそぶいて)、言ってみれば、責任逃れをするのである。まさにこれこそ、自然科学的思い上がり/傲慢(ごうまん)と言う外ない。

 

カントの認識論的営為のそもそもの動機は、認識論を実在論から峻別(しゅんべつ)する、つまり形而上学/神学から切り離すという点にある。

そして最終的には、当初の計画通りと言うべきか、「『物自体』は経験できず、認識することはできない」という結論に至ったのである。認識論を実在論から遠ざけたのであるから、実在を認識できなくなるのは当然と言えば当然なのである。

このような思考のあり方は、不可知論(ふかちろん)/agnosticism に直結する。

 

多くの場合、自然科学者たちは、カントに象徴的な形で現れている、いわゆる認識論的な絶望感と不可知論のニヒリズムに対して、あまりにもナイーブだと言うことができる。無頓着と言ってもよい。

その結果、彼らは、物質的/鉱物的なものごとの経過/経緯のみを追いかけるようになった。ここにアーリマンから来る死の力が入り込んでくる。端的に言えば、人間の思考が二進法で進むということである。機械的に進むのである。人間の魂が、コンピューターに似たものに変わる。本来の生命と感情が枯渇し、ルシファー由来の魔術的幻影が、人間の魂を侵食する。

そのような自然科学の営みと感性からは、人間に癒し(いやし)/Heilung をもたらす何ものも期待することはできない。

 

カント的な認識論の呪縛を解くという意図から、人は、言語/langue/language/Sprachという回り道を通ってみることにした。「言語論的転回」と呼ばれる。

しかし、ここにも大きな陥穽(かんせい)が口を開けている。人間の思考を、単純に/短絡的に「言語ゲーム/Sprachspiel」に還元してしまうという大きな誘惑が待ち受けているのである。

たしかに、人間の思考というものは、例外なく、「文脈」っぽい特徴を持つものだから、そのような思考を日常言語の形で記述できれば、非常に便利であることは疑いの余地がない。つまり、思考をすべて「言語ゲーム」として記述するのである。

 

しかし、思考という魂の現象を自分でよく観察しさえすれば、それが必ずしも可能ではないばかりか、思考/感情/意志の力学を実態に即して記述するためには、「言語ゲーム」ではまったく不十分なことが明らかになって来る。

思考は言語そのものではない、感情は言語そのものではない。意志は言語そのものではない。まったく別のものである。つまり、魂と言語の間には、それこそ言語を絶する断絶/深淵/隔たりがあり、両者を橋渡しすることは容易にはできないのである。

 

この橋渡しは、純粋思考によってのみ可能である。

聖書の言語は純粋思考の言語であり、人間の魂の出来事を神々の世界に結び付けている。

純粋思考の言語は、外見上、日常言語と何ら変わりはない。だが、日常言語が神々の世界に届かないのに対して、純粋思考の言語によって語られた(記された)聖書から私たちは、神の言葉を聞くことができるのである。

 

 

「物自体」は、むしろ「それ/Es」であり、「物自体」の世界は、むしろアーリマンの世界である。アンチ・キリストの世界であり、死の世界である。

 

この地上の世界において、ものごとは常に「体(たい)」を以て(もって)在る(ある)。個として、個物として、存在している。