スウェーデンボルグの警告 | 大分アントロポゾフィー研究会

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”彼自身(スウェーデンボルグ Emanuel Swedenborg)はこうした異常な出来事に好奇の目で関心を示す態度を、人間の健全な精神生活にとって有害かつ危険なものと考え、他人から頼まれ、それが正当な理由を持つ場合以外は、こうした超常能力を行使することはなかった。

友人ロブサームがあるときスウェーデンボルグに、一般の人々も他界と交流できるかどうか尋ねた。その際スウェーデンボルグは、断固としてこう答えている。

「こうした交流は狂気へ直通する道ですから、注意してください。というのは、人間に隠されている霊的な事柄を注視する状態において、人間は地獄の妄想から自らを引き離しておく方法を知らないうえ、そうした妄想は、人間が自分の把握を超えた天界の事柄をひとりよがりの思索によって発見しようとすると、その人間を混乱させてしまうからです。あなたは、不必要な探求によって自分を見失ってしまう神学生や、とりわけそうしたことをしたがる神学者たちが、どれほどしばしば理解力を損なうことになったかを、十分ご存知でしょう」”(高橋和夫『スウェーデンボルグの思想』講談社現代新書 p.200,201)

 

アーリマン的思考と純粋思考

 

1 アーリマン的思考は、反感に端を発しており、人間の魂に、やがて躁状態をもたらす。ルシファー的な熱狂である。

1‐1 ルシファー的な熱狂が去ると、やがて鬱(うつ)状態がやって来る。

1‐2 反感に端を発し、そのネガティヴなパワーを推進力とするが故に、この成り行きは不可避である。

 

2 反感に端を発し、そのネガティヴなパワーによって推進するアーリマン的思考が、人間の魂の内に作り上げるのが、イメージ体に他ならない。

2‐1 体(たい)であることは、イメージ体が個的であることの表れでもあり、個的であるが故に、他のイメージ体とは、いわば敵対的な関係にあらざるを得ない。基本的に、個は他の個と対立するものなのである。

2‐3 通常、人間は自らの内に構築されたイメージ体と同化している。この状況を、第二の自我/低次の自我/境域の小守護者と呼ぶことができる。

2‐4 私は、常に他者と敵対しているのである。

 

3 イメージ体のこの在り様こそ、「狂気」であり、「妄想」であり、「天界の事柄をひとりよがりの思索によって発見しようとする」ことに他ならない。

3‐1 つまり、私たちはみな、多かれ少なかれ、スウェーデンボルグの言う「狂気」の中にいるのである。

 

”・・・双極性障害では、ハイテンションで活動的な躁状態と、憂うつで無気力なうつ状態を繰り返します。躁状態になると、眠らなくても活発に活動する、次々にアイデアが浮かぶ、自分が偉大な人間だと感じられる、大きな買い物やギャンブルなどで散財するといったことがみられます。
躁状態ではとても気分がよいので、本人には病気の自覚がありません。そのため、うつ状態では病院に行くのですが、躁状態のときには治療を受けないことがよくあります。しかし、うつ病だけの治療では双極性障害を悪化させてしまうことがあります。・・・”(『こころの情報サイト』国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所より)

 

”・・・躁とうつの症状が現れる間隔は数ヶ月だったり数年だったりいろいろです。躁状態から突然うつ状態へと切り替わることもあります。
うつ状態しか経験したことがないと思っていても、病気とは思えないようなごく軽い躁状態を何度も経験していた、ということもあります。・・・”(『こころの情報サイト』国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所より)

 

”躁状態の時は現実離れした行動をとりがちで、本人は気分がいいのですが周りの人を傷つけ、無謀な買い物や計画などを実行してしまいます。
再発しやすい病気なので、こうした躁状態をくりかえすうちに、家庭崩壊や失業、破産などの社会的損失が大きくなっていきます。
また、うつ状態はうつ病と同じように死にたいほどの重苦しい気分におしつぶされそうになりますが、躁状態の時の自分に対する自己嫌悪も加わり、ますますつらい気持ちになってしまいます。
こうした躁とうつの繰り返しを治療せずに放置していると、だんだん再発の周期が短くなっていきます。・・・”(『こころの情報サイト』国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所より)

 

つまり、反感に端を発するアーリマン的思考によって、種々の文脈が作られ、過去に作られた文脈が発見され、文脈相互の関係性が見抜かれ、そしてまた、新しい文脈がこしらえ上げられる。こうしたことの繰り返し、しかも調子が良くなると(ルシファー衝動である)、この作成~発見~更新~再発見・・・のサイクルが新幹線並みに速くなっていき、躁状態/ルシファー的熱狂がもたらされるが、何らかのきっかけによって、やがて熱が冷めると、気分的に落ち込んでいき、鬱になる。そもそもの反感というもののやってきた大本(おおもと)であり、その正体は死に他ならない。鬱(うつ)の正体は、死である。

 

さて、「このような狂気から脱出するには、どうするのか」ということになる。『こころの情報サイト』的に表現するなら、「どうやって治療するの」ということになるが、この国のウェブサイトが勧める事柄については、直接(自分で)このサイトにアクセスするべきだと思うので、私が考える「治療」について述べたい。

 

一言で言えば、「イメージ体のアーリマン的/ルシファー的仮想の虚妄(きょもう)を見抜き、純粋思考によって、ここを突破する」となる。

アーリマンから来る死の力、鉱物的重力的拘束を突破する。

ルシファーから来る情念の幻想と魔術を突破する。アーリマンから来る死に、生命の輝きを与えるかに見えるが、それは偽りなのである。

 

何らかの(運命的)出来事、芸術、そしてもちろん宗教によって、それが可能となることは間違いないけれども、これらの契機(けいき)をいかに使うかは、わたし次第あなた次第であることは言うまでもない。とんでもない出来事、芸術まがいのもの、悪魔的な宗教などが・・・いずれにしても、生まれてきた以上、もう逃げ場はないと知ること。覚悟せよ。責任を持て。(ひとまかせにするな。)

・・・死ぬことは、それほど怖いことではないはずだ。

 

”統合失調症は、こころや考えがまとまりづらくなってしまう病気です。そのため気分や行動、人間関係などに影響が出てきます。統合失調症には、健康なときにはなかった状態が表れる陽性症状と、健康なときにあったものが失われる陰性症状があります。 陽性症状の典型は、幻覚と妄想です。幻覚の中でも、周りの人には聞こえない声が聞こえる幻聴が多くみられます。陰性症状は、意欲の低下、感情表現が少なくなるなどがあります。 周囲から見ると、独り言を言っている、実際はないのに悪口を言われたなどの被害を訴える、話がまとまらず支離滅裂になる、人と関わらず一人でいることが多いなどのサインとして表れます。・・・”(『こころの情報サイト』国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所より)

 

”統合失調症の症状でよく知られているのが、「幻覚」と「妄想」です。
幻覚とは実際にはないものをあるように感じる知覚の異常で、中でも自分の悪口やうわさなどが聞こえてくる幻聴は、しばしば見られる症状です。
妄想とは明らかに誤った内容を信じてしまい、周りが訂正しようとしても受け入れられない考えのことで、いやがらせをされているといった被害妄想、テレビやネットが自分に関する情報を流していると思い込んだりする関係妄想などがあります。
こうした幻覚や妄想は、本人にはまるで現実であるように感じられるので、病気が原因にあるとはなかなか気づくことができません。”(『こころの情報サイト』国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所より)

 

「こうした幻覚や妄想は、本人にはまるで現実であるように感じられる」というのは、わたしやあなたが、それぞれのイメージ体の内部にいて、それに囚われている現実そのものである。

自分のイメージ体はそれこそリアルそのものであるのに対して、他者がどのようなイメージ体を内に抱いているか想像することは極めて困難なのである。

 

ちょっと目をつぶってみる。脳裏に現われているのは、他ならぬわたしが作り上げたイメージ体による景色である。

そして目を開ける。するとわたしの周りの現実の景色は、それとはまったく異なっているのだ。そこにあると思っていたものが、別のところにある。思っていた色合いとは違っている。動いていたはずのものが止まっている。・・・

つまり端的に言って、想像と現実はまったく違っているのである。

 

つまり、私たちのイメージ体というものは、いくら堅固に組み立てようとも、常に危うく(あやうく)脆く(もろく)儚い(はかない)もの、まさに夢のようなものである。

そして、このイメージ体の内部においても、個々の文脈イメージ間の辻褄(つじつま)を合わせる作業はかなり困難を極める。

「こっちを立てれば、あっちが立たず」「昨日はこう思っていたが、やっぱり違うような気がしてきた」「昨日は好きだったけど、今日になったら嫌になった」「去年の自分がどう考えていたのか、思い出せない」「今日の晩ごはんのメニューはどうしよう」「急にカメが飼いたくなった。なぜなんだろう」・・・

 

そして、「こころや考えがまとまりづらくなってしまう」。

しかし、私たちはこの地上の世界を生きるためには、他ならぬこのイメージ体を拠り所とするしかないという宿命なのである。

 

多くの宗教家は、私たちが囚われているこのようなイメージ体の仮象性の虚妄に気づいて、これから抜け出す方策を探ってきた。

 

そして、私に言わせれば、「イメージ体のアーリマン的/ルシファー的仮想の虚妄(きょもう)を見抜き、純粋思考によって、ここを突破する」となる。