「あなた」とはだれなのか | 大分アントロポゾフィー研究会

大分アントロポゾフィー研究会

ブログの説明を入力します。

隣に座っているその人に、それを見た。

また別の時には、それは、私に「+++・・・(今よ!)」と告げた、あの人の中にいた。

 

それとは、「あなた/Du」のことだ。

 

・・・・・・・・・

 

”・・・意志と思考と感情を結びつける糸が繊細な体(アストラル体とエーテル体)のなかで解かれるようになると、私たちは「境域の小守護者」に出会います。そしてさらに物質体のさまざまな部分において(最初は脳において)も、意志と思考と感情の結びつきが解かれると、私たちは「境域の大守護者」に出会います。

・・・境域の守護者は自分が現れたことの意味を、ほぼ次のような言葉で語るのです。

 +++ +++ +++

・・・いま、過去の受肉状態のよい面と悪い面は、すべてあなたの前に姿を現さなくてはなりません。・・・いま、あなたのよい面と悪い面はあなたから離れて、あなたの人格の外に出ます。それらは独立した姿を現します。あなたは、外界の石や植物を見るのと同じように、それらが独立した姿を見ることができます。

そして私(境域の守護者)こそが、あなたのよい面と悪い面が独立して姿を現したものなのです。私という存在は、あなたの崇高な行為や悪い行為をもとに、私自身の体を形成しました。幽霊のような私の姿は、あなた自身の人生のカルマ的な出納帳をもとに作り上げられました。いままであなたは、私を見ることができませんでしたが、あなた自身のなかにはいつも私がいました。・・・

ひとたびあなたが、私が守っている境域を越えると、私は目に見える姿で現れ、その後は一瞬たりとも、あなたのそばを離れることはありません。・・・

あなたのなかに残っている恐れの感情や、すべての行為や思考に対する責任を完全に引き受ける力は自分にはないのではないか、という不安感をとおして、あなたは私の境域と出会います。・・・あなたが恐怖から完全に解放され、最高度の責任を自分で引き受ける心がまえができるまでは、この境域を越えようとしてはなりません。

・・・以前あなたが死んだとき、私はその場に居あわせていました。そして私のために、カルマの導き手はあなたがふたたび生まれることを決定しました。・・・

私はこれまで、あなたが死ぬ瞬間に目に見えない姿でそばに立っていましたが、いま、わたしは目に見える姿であなたの前に立っています。私の境域を踏み越えると、あなたは、いままであなたが地上を去るたびに足を踏み入れてきた領域に入っていくことになります。あなたは完全に意識的にこれらの領域に足を踏み入れ、それから先はずっと、外面的に目に見える姿をとって地上で生活しているときにも、同時に死の領域で(しかし本当は、それは永遠の生命の領域なのです)活動することになります。ある意味において、私は死の天使です。しかし同時に私は、決して涸れることのない高次の生命をもたらす存在でもあります。生きている肉体の中にいるとき、あなたは私をとおして死を体験しますが、それはけっして滅ぼすことのできない存在のなかで、ふたたびよみがえるためなのです。

・・・いままでは、私はあなた自身の生の営みをとおして存在していました。しかしいま私は、あなたをとおして自分自身の存在に目覚めました。そして私は、未来の行為の目に見える基準として(場合によっては、あなたをたえず叱責する存在として)、あなたの前に立っています。あなたは私を生み出すことができました。しかしあなたは同時に、私を作り変える義務も引き受けたのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p.227~232)

 

「死の天使」は、四福音書の次の場面に登場する。

 

”さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、他のマリヤが墓を見に来た。すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。・・・」”(『マタイの福音書』第28章)

 

”さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、それほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。・・・」”(『マルコの福音書』第16章)

 

”週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。見ると、石が墓のわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった。そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」

女たちはイエスのみことばを思い出した。そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。・・・”(『ルカの福音書』第24章)

 

”しかし、マリヤ(マグダラのマリヤ)は外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。

彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。

イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」

イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。

イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神もとに上る。』と告げなさい。」”(『ヨハネの福音書』第20章)

 

 

 

”さらに重要な意味をもつのは、神秘学において、高次の世界における位置確認 Orientierung と呼ばれている訓練です。物質的・感覚的な世界における机や椅子と同じように感情や思考は現実的な事実である、ということを完全に理解するとき、私たちは高次の世界において自分の位置を確認することができるようになります。物質的な世界における感覚的な事物がおたがいに作用しあうのと同じように、魂の世界と思考の世界では、感情と思考は相互に影響し合っています。・・・感情や思考の世界においては、法則は私たちの魂の生命そのもののなかからあふれ出してきます。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p.42,43)

 

”・・・けっして物質的に受肉することのない高次の世界の存在たちが、とてもすばらしい(あるいはぞっとするような)色合いをおびて現れることもよくあります。実際のところ、このような高次の世界の色彩は、物質的な世界の色彩に較べて、はるかに豊かなのです。「霊的な目」をとおして霊視する能力を身につけると、私たちは、遅かれ早かれ、物質的な現実のなかにはけっして足を踏み入れることのない、人間よりも高次の存在者たちと(場合によっては、人間よりも低次の存在者たちと)出会うことになります。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p.52)

 

”・・・事物は、私たちの前に、現在の存在だけではなく、その生成と消滅も開示するようになる・・・。私たちはいたるところに、感覚的な目をとおしては知覚することのできない霊を見るようになります。そしてそれとともに私たちは、じょじょに自分自身の直観をとおして、誕生と死の秘密の内奥に到達するための最初の数歩を歩み始めたことになります。・・・霊にとっては、誕生と死は一つの変化にすぎません。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p.63)

 

”・・・何度も試みたあとで、訓練をする私たちは、ようやく(私たちが)観察している人間の魂の状態に対応する、ある感情を自分自身のなかで体験することができるようになります。するとさらにしばらくたってから、私たちは、この感情をとおして自分自身の魂のなかにある力が目覚め、この力がほかの人間の魂の状態に関する霊的な直観へと変化することに気づきます。私たちの霊的な視野のなかに、輝くように感じられるイメージが現れます。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p.66)

 

”・・・このような特性をある程度まで身につけると、ようやく学徒は、高次の知の鍵である、事物の本当の名称 Name を知る段階まで成熟します。世界の事物は神的な創造者のもとでそれぞれの名称をもっていますが、秘儀参入の本質は、世界の事物をこのような本当の名称で呼ぶことにあります。この名称のなかに、事物の秘密は含まれています。ですから秘儀参入者は、秘儀に参入していない人とは別の言語を語ることになります。秘儀参入者は存在物を、存在物そのものを生み出した名称で呼ぶのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p.73)

 

アーリマン/ルシファーと共に、私の低次の自我が作り上げたイメージ体/文脈イメージの虚構性に気づき、さらにその悪魔性を見抜くことができるのか。それを直視する勇気を持つことができるか。そこは、死の深淵だ。

死の深淵の上を、生命が流れている。そして生命が流れるその上を、死が覆う。そこはエーテル界であり、同時に死の世界でもある。

私たちは寝落ちして、一時的に昏睡状態となり、その際まで行く。

また、予期せぬ出来事に巻き込まれて、われを失い、途方に暮れる。あの死の天使がすぐ隣にいるように感じられる。

 

いずれにしても、生半可な気持ちで、「秘儀参入」などというものに足を突っ込むのは、文字通り命取り(いのちとり)である。

また同時に(そして)、私は私の人生から逃げることはできない。誰も自分の人生から逃げられない。幸か不幸か。

また私は、私の妻と別れる(離婚する)つもりは断じてない。運命だから。

でも、妻が「別れたい。」と言うなら、・・・「どうしても離婚したい。」と言うのなら、・・・でも、運命のはずじゃないのかよお、おいおい・・・

 

さて、・・・わたしは・・・それから、あなたも・・・「あなた/Du」。「あなた、そこにいたのね。・・・あなた、だれなのよ。」

 

 

”こう言ってから、イエスは彼ら(使徒たち/弟子たち)が見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。

そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

・・・

そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。

「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。・・・」

・・・

五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。・・・

・・・そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。・・・これは、預言者ヨエルによって語られた事です。

『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』

イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議のわざと、あかしの奇蹟を行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。

あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。

ダビデはこの方について、こう言っています。

『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、わたしが動かされないように、わたしの右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らうあなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』

・・・彼(ダビデ)は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。

神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。・・・」”(『使徒の働き』第2章)

 

時間は、鉱物界においては、過去から来る。エーテル界においては、未来から来る。逆行しているのである。

 

通常の思考は、鉱物界における時間の流れに従う。それはいわば、死へと向かっており、そのままではいかなる飛躍も期待できない。通常の思考が生み出す、つまるところイメージ体/文脈イメージの中に留まる限り、エラン・ヴィタール élan vital は、あり得ないのである。すべては過去に由来しており、その性質上、同質の事柄の繰り返しに留まって停滞する。そこにアーリマンから死の力が浸潤してくる。ルシファーが墜落したのだ。まさに、芸術の対極にある魔境(まきょう)が出現するのである。病(やまい)と死の境域と言う外ない。

 

純粋思考は、未来から来るものに関係する。それは、演繹や分析とは無縁の思考である。それはいわば、未来の記憶の想起であり、「事物の本当の名称 Name を知る」ことに他ならない。「ですから秘儀参入者は、秘儀に参入していない人とは別の言語を語ることになります。秘儀参入者は存在物を、存在物そのものを生み出した名称で呼ぶのです。」とシュタイナーが語るように、純粋思考の言語こそが、「秘儀参入者の言語」に他ならず、「秘儀に参入していない人とは別の言語」を、例えば預言者は、そして芸術家は語るのである。

そしてそのようにして預言者や芸術家が語ったことは、純粋思考を以てしなければ、理解することはできないのである。常に過去に由来する必然のイメージ体/文脈イメージに当てはめようとすることは許されない。それこそ、天使を殺害するに等しい。

 

”神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。

こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。”(「創世記」第3章)

 

思春期を迎える前の子どもたちは、まだ固有のアストラル体を持たないので、アストラル体の成熟とともに魂の内に形成される習いのイメージ体/文脈イメージに拘束されていない。彼らの親が、自分の子どもに対して、反感に満ちた攻撃的なアストラル投射を控えるだけの度量と器量とを持ち合わせていれば、子どもたちのエーテル体は健やかな状態を維持できる可能性が高くなる。

そのような子どもたちは、優しく輝くエーテル光に包まれ、純粋思考によって彼らを観察するなら、まさに聖母マリアから生まれた幼児(おさなご)イエスのように見えるはずである。

さらに、まだ幼い彼らの姿に、彼らがやがて成長し大人になった姿が重なり合って見えてくる。エーテル形姿の大人の彼らが。

 

イメージ体の由来は、この地上の世界に誕生した私の根源的とも言える自己疎外/自己外化にある。ここにはアーリマン/ルシファー由来の根源的とも言える反感に端を発し、他者を排除し、差別する恐るべき力学が働いている。そしてこのいわゆる差別主義/いじめと排除の論理は、最後にはまた私自身に戻って来て、私を逃げ道のない自己疎外から自己否定にまで至らしめるのである。

 

この虚無主義/ニヒリズム/死に、・・・

 

ゴルゴタの秘蹟は成し遂げられ、キリスト・イエスは復活した。彼は今、エーテル/生命の領域、エーテル界に、まさに天使の姿となって顕現している。そこから人間に、聖霊/パニス・アンジェリクス Panis Angelicus を送ってくる。それは未来から来る。未来の記憶・・・私たちはそれを想起する。純粋思考によってつかみ取る。

 

”ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」

ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」

イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」”(『ヨハネの福音書』第13章)

 

イエスの言う「栄光を受ける」とは、端的に死ぬことを意味するが、同時に、死ぬことによってエーテル界/生命界/精神界へ赴くことを表現している。死ぬことによって、鉱物界の制約から解き放たれ、生命/精神の世界に入って行く。

しかし、この時、イエスの弟子のペテロは、イエスについて行くことはできない。死の恐怖に打ち勝つ勇気を、まだ持てずにいるからである。たとえ彼が、「あなた(イエス)のためにはいのちも捨てます。」と言ったとしても。イエスはペテロに、「まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」と直言する。

生命/精神の世界の現実/実相を理解する者だけが、死の恐怖に打ち勝つことができる。イエスに直言されたペテロは、まだこの時、その真実を知らなかったのである。

 

イエスは弟子たちに、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と語る。

聖霊降臨の出来事が起こる前、弟子たちは生命/精神の世界の真実を、まだ知らない。その弟子たちに「新しい戒め」を与えるというのである。「行動の指針にせよ」ということである。弟子たちの魂の内で、愛は未だ衝動とはなっていないから、教師が与えるような指針となる。「見習って真似をしなさい」ということになる。「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ということになる。

しかし聖霊降臨の出来事が起これば、弟子たちは、実のところ、未来から、生命/精神の世界から訪れたキリスト・イエスと共にあった日々の真実/出来事の本当の意味を、純粋思考によって想起し(思い出し)、愛/キリスト衝動につき動かされる存在へと成長を遂げる。

 

例えば、クリスマスのような、人の気持ちが温かく(暖かく)、優しくなる時期に、見慣れた景色がいつもとは違う光に照らされていることに気づくことがある。これはエーテル霊視の兆しである。純粋思考が働こうとしているのである。

 

なにか 出来事 Errignis 起こるとき、それは精神/生命の世界の側からすれば、まさしく預言が成就されたように見える。純粋思考が働くと、なにか 符合(ふごう)のような感触が生まれてくる。複数のなにかが、共振(きょうしん)するかのように。実際、そのような瞬間には、天使存在(たち)が顕現しようとしているのにちがいない。私たちは、彼らを純粋思考し、エーテル霊視するのだ。

 

 

”私はこれまで、あなたが死ぬ瞬間に目に見えない姿でそばに立っていましたが、いま、わたしは目に見える姿であなたの前に立っています。私の境域を踏み越えると、あなたは、いままであなたが地上を去るたびに足を踏み入れてきた領域に入っていくことになります。あなたは完全に意識的にこれらの領域に足を踏み入れ、それから先はずっと、外面的に目に見える姿をとって地上で生活しているときにも、同時に死の領域で(しかし本当は、それは永遠の生命の領域なのです)活動することになります。ある意味において、私は死の天使です。しかし同時に私は、決して涸れることのない高次の生命をもたらす存在でもあります。生きている肉体の中にいるとき、あなたは私をとおして死を体験しますが、それはけっして滅ぼすことのできない存在のなかで、ふたたびよみがえるためなのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p.231,232)

 

”・・・「境域の小守護者」という、過去から生じる自分自身のイメージのなかに組み込まれているものだけをたずさえていこうとするならば、私たちは地上の仕事を部分的にしかはたせなくなります。そのため「境域の小守護者」と出会ってからしばらくたつと、私たちは「境域の大守護者」と向き合うことになります。私たちはこのような第二の「境域の守護者」とどのようにして出会うのかを、ふたたび物語風に記述してみることにしましょう。

「境域の小守護者」との出会いをとおして、自分は何から解放されなくてはならないのかということを認識したあとで、私たちの前に崇高な光の形姿が立ちはだかります。この光の形姿の美しさについて、私たちの通常の言葉をもちいて描写するのは容易ではありません。

思考と感情と意志の器官が物質体においても高度に分離し、相互の関係がこれらの器官そのものによってではなく、物質的な条件から完全に切り離された高次の意識によって支配されるようになるとき、私たちはこの「境域の大守護者」と出会います。いまや思考と感情と意志の器官は、人間の魂の力が超感覚的な領域のなかから支配し、使用する道具になったのです。

第二の「境域の守護者」は、あらゆる感覚的な束縛から解放された人間の魂に近づき、ほぼ次のようなことを語ります。

 +++ +++ +++

あなたは感覚的な世界から解放されました。あなたは超感覚的な世界の市民権を獲得しました。これから先は、あなたは超感覚的な世界をよりどころとして活動することができます。あなたは、自分自身のためには、現在のような形態の物質体はもう必要としません。この超感覚的な世界に住む能力だけを手に入れたいのなら、あなたはもう感覚的な世界に戻る必要はありません。

・・・しかしこれから先は、あなたは自由になった力をとおして、さらに感覚的な世界のために働かなくてはなりません。いままであなたは自分自身だけを救済してきましたが、これからは、あなたは解放された存在として、感覚的な世界にいるすべての仲間を自由にすることができるのです。これからは、あなた一人が超感覚的な世界に入っていくためではなく、感覚的な世界にいるほかのすべての人びとを超感覚的な世界にいっしょに連れていくために、人類全体の一員になりなさい。

あなたは将来、私の力と一体になることができます。しかし私は、感覚的な世界にまだ不幸な人びとがいるあいだは、幸せを感じることはできません。あなたは一人の自由になった存在として、今日のうちにも、超感覚的な領域に入っていきたいと願っていることでしょう。しかしそのときあなたは、感覚的な世界にいる、まだ救済されていない人びとのほうを見下ろすことになるでしょう。あなたはみずからの運命を感覚的な世界にいる人びとの運命から切り離そうとしています。しかし本当は、あなたたち人間は皆、おたがいに一つに結びついているのです。かつて、あなたたち人間は全員、感覚的な世界から高次の世界のための力を取り出すという仕事をはたすために、感覚的な世界のなかに降りなくてはなりませんでした。ほかの人びとから離れるならば、あなたはいままでほかの人びとと協力しあうことによってのみ発達させることができた力を乱用することになります。ほかの人びとが感覚的な世界のなかに降りてくれなかったら、あなたはこのような力を使うようにはなれなかったはずです。ほかの人びとがいなかったら、あなたは超感覚的に存在するための力を手に入れることはできなかったのです。あなたは、他の人びととともに獲得したこの力を、ほかの人びとと分ちあわなくてはなりません。

ですから、獲得したすべての力をあなたの仲間を救済するために使い切るまでは、私はあなたを超感覚的な世界の高次の領域に入らせません。あなたは、すでに獲得したものを抱えたまま超感覚的な世界の低次の領域にずっと留まっていたい、と願っているかもしれません。しかし私は、「燃える剣をもって楽園の前に立つケルビム」として高次の領域に到る門の前に立ちはだかり、感覚的な世界で使い切っていない力があなたのなかに残っている限りは、あなたがなかに入るのを拒みます。

あなたがほかの人間のために自分の力を使おうとしないならば、あなたに代わって、この力を使う別の存在が現れます。そのとき、高次の超感覚な世界はこの別の存在をとおして感覚的な世界のあらゆる成果を受けいれることになります。しかしあなたは、それまで自分と結びついていた基盤を失います。純化された世界は、あなたを越えて、さらに進化していきます。あなたはこの純化された世界から締め出されるのです。このときあなたは黒い道を歩むことになります。そしてあなたが見捨てた人びとは、白い道を歩んでいくことになるでしょう。

 +++ +++ +++

・・・白い道には、特別な誘惑は存在しません。ここではどんなものも、私たちのエゴイズムに訴えかけてくることはありません。わたしたちは高次の超感覚的な領域において受け取ったものを、自分のなかに取り込まないで、周囲に放射させます。これこそは、私たちの仲間である人びとに対する愛なのです。

黒い道においては、エゴイスティックな人間が望むものは、すべて手に入ります。黒い道は、人間のエゴイズムを完全に満足させるような結果をもたらすのです。自分一人のために幸福を求める人は、確実に黒い道を歩むことになります。なぜならその人は、黒い道にふさわしい性質を備えているからです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p.)

 

高次の霊的ヒエラルキア存在たちは、いわば神の体(たい)である、ということができる。その変化/変容と増殖の在り様(ありよう)は、まさに融通無碍(ゆうづうむげ)、千変万化(せんぺんばんか)である。

キリストは神の子であり、ケルビムに姿を変えて境域に立ち、また、アンゲロイとなってエーテル界に現われる。そして人類に聖霊を送るのである。

 

”「・・・わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。・・・あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしから離れては、あなたがたは何もすることができないからです。・・・あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。・・・わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。      ”(『ヨハネの福音書』第15章)