「わたし/Ich」「あなた/Du」「それ/Es」の宇宙 | 大分アントロポゾフィー研究会

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1 霊界/精神界は、「わたし/Ich」と「あなた/Du」とで成り立っている。

1‐1 精神界において「わたし/Ich」は、「あなた/Du」が「わたし/Ich」と同質の存在であることを、かたときも忘れることはない。

1‐2 「わたし/Ich」と「あなた/Du」の本質とは、ゴルゴタの丘で大いなる自己犠牲の秘儀を成したキリスト存在に他ならない。

 

2 この地上の世界では、それに、「それ/Es」が加わる。

2‐1 「それ/Es」は、「わたし/Ich」とは異なる。それは、「あなた/Du」とも異なっている。

2‐2 「それ/Es」の本質は、アンチ・キリストである。それは、根源/原理において、アーリマンである。

2‐3 根源/原理においてアーリマンであるアンチ・キリストは、人間の魂において、ルシファーの覆い(おおい)を纏う(まとう)。そのようにして、人間はイメージ体/文脈イメージを作る。そこに、アーリマンとルシファーが働いているのである。驚くべき幻想と魔術の世界が現出(げんしゅつ)する。

2‐4 つまり人間は、この地上の世界において、自らの魂の内に、本来的にアンチ・キリストであるイメージ体を有し、あろうことか自らイメージ体と同化して生きているのである。これこそ”カインの末裔(まつえい)”としての人間の姿に他ならない。

2‐5 私たちは四六時中(しろくじちゅう)、”見栄え/聞こえ”を気にし続け、消耗する。イメージ体に囚われ、病み、アーリマン/ルシファーから死が近づいてくる。生きづらさを感じるようになる。いずれにしても、このような生き方は、カインの末裔としての人間の宿命である。だが、人生のある時期、比較的長いスパンにわたって、このような人生経験をする必要があるのは、むしろ歓迎すべきなのだ。実のところ、誰もが感じてはいるように、このようないわば試練を経ることなしには、人生はもっと虚しいものになってしまうものだからである。

 

3 私の魂の中にアンチ・キリスト/死が忍び寄って来ると、私は他者に対する反感と不快感を感じ始める。ただでさえ、自らが作り上げたイメージ体/文脈イメージ故に、他者は皆「それ/Es」である、と私は感じているのである。「それ/Es」は端的に言って、「物」である。

3‐1 自分が万能ではないと(心の底では)知っている私は、「それ/Es」としての他者が私を脅かす(おびやかす)ことを恐れて、他者をコントロール/マネジメントしようとする。自分に都合の良い他者に変えようとする。他者を懐柔(かいじゅう)しようとしたり、他者を攻撃したりし始める。

3‐2 私が何をしようと、他者はあくまでも他者であり続けるから、私のあらゆる”策略(さくりゃく)”は、最終的にはうまくいかない。私による他者支配のための戦いは、最後は負けで終わる必然なのである。戦いに敗れた私は、しばらくの間は立ち直れないのが普通である。立ち直ったからと言って、私はまたぞろ同様の戦いを続けるつもりなのか・・・

 

4 いずれにしても、自分のこしらえてきたイメージ体/文脈イメージの正体を見抜かなければ、実は全く前には進めないのである。イメージ体/文脈イメージの虚構性/仮象性は、明白であるが、通常、私たちは、他ならぬ基本的に自作のイメージ体の中に、いわば嵌まり込んで(はまりこんで)いるので、そのイメージ体こそが現実であると思い込んでいる。

4‐1 そのイメージ体はその人自身の自作であるとはいえ、そこにはアーリマンとルシファーの力が浸潤(しんじゅん)している。だからイメージ体は、人間とアーリマン/ルシファーの合作であると言うことができる。そして通常、私たちは自らのイメージ体に依存/執着することによって、日常生活を送っているのである。

 

5 さて、私が他者を異物であると感じて、その他者を攻撃する際に用いる手法が、アストラル投射と呼ばれるものである。「あいつは~~~に違いない」と思い込んで、「あいつの弱点は~~~にある(だろう)」と考え、「だから×××だあ。くらえ。」とネガティヴな念(思考内容)を放射/投射するのである。

5‐1 通常、アストラル投射という言葉は、幽体離脱と同じ意味合いで使われる。アストラル体が離れるということだ。放たれたネガティヴな念(思考内容)が、あたかも私から離れて行ったかのように思われる(そのように錯覚される)ので、「投射」とか「離脱」という言葉が使われる。

5‐2 念(思考内容)をそのように「放つ」ことは、日常生活におけるほとんどすべての生活場面で、私たちがごく普通に行っている、いわばアストラル的な行動である。特にアクター/俳優などは、日々そのための研鑽を積み、演技力を磨いている。

5‐3 つまり、いずれにしても、イメージ体/文脈イメージの精緻化とその拡張に関わる事柄である。どこまで行っても、低次の自我とアーリマン/ルシファーの桎梏(しっこく)から抜けきれない。内を外であると思い込み、そのようないわば仮(かり)の外部から、「それ/Es」としての他者が襲いかかってくるかのように感じられる。だが実のところ、その他者(「それ/Es」)の正体は、私が投射した私自身の低次の自我に他ならない。この黒魔術を見抜かなければならない。