出来事 ~ 芸術 ~ 聖霊降臨 | 大分アントロポゾフィー研究会

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芸術は未来から来る。

エーテル界から来る。

天使たちの世界から来る。

そしてそこには、エーテル形姿のキリストが現れている。

 

創造の営みは、まさに神が創造の七日間で成したごとく、私たち人間の日々の営み中で、繰り返されている。

 

出来事は未来から来る。

エーテル界から来る。霊たちの世界から来る。

それは、聖別(せいべつ)/consecration であり、聖体拝領(せいたいはいりょう)/Communion であり、実体変化(じったいへんか)/transsubstantiatio である。

その原型は、ゴルゴタの秘蹟/キリスト・イエスの復活にある。

復活したキリスト・イエスは、この地上の世界に再び姿を現したその時、この世ならぬエーテル光に包まれていた。

 

”イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼ら(使徒たち)に現われて、神の国ことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分の生きていることを使徒たちに示された。

彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」

イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に望まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで、わたしの証人となります。」

こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。

そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」”(『使徒の働き』 第1章)

 

ふたりの「白い衣を着た人」は、四つの福音書にも登場するが、この存在はエーテル界の住人である天使/アンゲロイである。

『使徒の働き』のこの部分で、イエスは聖霊降臨を約束する。天使たちは、自分たちの位階(天使の位階)の形姿(エーテル形姿)となったキリスト・イエスが、使徒たちにも見えるようになることを伝える。

つまり、聖霊が降ると、人はエーテル形姿のキリストを見るようになるのである。

 

だが人は、いつ聖霊降臨の出来事が起こるか、予期することはできない。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」とイエスが語るように。

 

出来事は常に、イメージ体/文脈イメージの向こう側から来る。

どんな出来事がいつ起こるのかを、人は予測できない。そして起こった出来事に、人は巻き込まれる。目を逸らそうとしてもできない。いったん起こってしまえば、その出来事から目を逸らせなくなってしまうのが、人間の性(さが)/宿命というものだろう。

つまり、何らかの態度決定を迫られるのである。まさしく真剣勝負だ。”本物の剣”なのだ。油断禁物なのである。もちろん焦りもいけない。気のゆるみが命取りになる。

 

何らかの出来事が起こった時に、私の自我が何らかのイメージ体の中に留まっていると、私の出足は少なくとも一歩遅れる。多分、何歩も遅れて、結局取り残される。後の祭りである。何が起こったのか分からないまま、呆気(あっけ)にとられていたり、呆然(ぼうぜん)としていたり、眠っていたりする私が、ががが、私が・・・もはや笑うに笑えない。

 

私たち人間は、この地上世界において、最高レベルの個体性の中に生きる。

自我において。アストラル体において。エーテル体において。そして物質体において。

私たち人間は、死ぬと物質体を失い、エーテル体を失い、アストラル体を失い、そして、いや、だが、自我/霊/Geist は個体性を保つ。死後も自我の個体性が失われないのが、人間存在の特徴であり、他の動物たちと大きく異なるところである。

 

しかしこの地上の世界においては、まさにこの個体性ゆえに・・・

これが地上の世界と神々の世界の違いである。

いずれにしても、私の魂が浄化されない限り、私は、神々の世界へ足を踏み入れることは許されない。

つまり私が死んで、私の魂も死なない限り、私はその世界へ辿り着くことはないのである。

 

ここに再び、ローゼンクロイツァーのマントラを書き記しておくことは適切だろう。

 

~ ローゼンクロイツァーのマントラ

 

Ex deo nascimur(エクス  デオ  ナスキムル) 神より生まれ

In Christo morimur(イン クリスト モリムル) キリストに死し

Per spiritum sanctum reviviscimus(ペル スピリトゥム サンクトゥム レヴィヴィスキムス) 聖霊によって蘇る

 

(上松佑二『光の思想家 ルドルフ・シュタイナー』より) ~

 

たしかに私が物理的に死ねば、まもなくエーテル体は全的なエーテル体に融解し、生前見られた個体性を失う。そしてやがて、私の個的なアストラル体も宇宙的アストラル界へと解消される。このようにして私は、私の魂を失う。私の魂は死ぬのである。

しかし、私の自我はその個体性を保持し続ける。人間は精神界においても個体性/自我を失うことがない。これが人間存在という精神存在の特徴である。これこそが人間を人間たらしめる根拠なのである。

 

そしてこのことを、私たちはこの地上生を生きる間に、実はよく感じている、よく分かっているのである。

「我思う、故に、我在り」と純粋思考する時、私はイメージ体/アストラル体の外にあり、地上の世界を生きる際に私の内と外とに見出すあらゆる物質性から、いわば切れる。すべての「それ/Es」から離れ、遠ざかって、いわば絶対零度の孤独の中に「わたし/Ich」を見出す。つまり、この純粋思考において、私はすでに精神界に生きているのである。個的な自我として精神界を生きているのである。

 

つまり、「我思う、故に、我在り」と純粋思考する時、(生まれる前に/死んだ後に)精神界に個我(「わたし/Ich」)として生きていたことを、私は思い出す/想起するのである。これが、第一の自己認識である。

このとき私は、この「わたし/Ich」の正体が、キリストの意志/キリスト衝動であるということを見抜けるだろうか。ゴルゴタの秘蹟を成就することによって、キリスト・イエスが人類のひとりひとりの自我の中に点火した焔(ほのお)を見るだろうか。キリスト・イエスが人間の霊/精神に供儀を捧げること(自己犠牲)によって、・・・これは言葉であり、愛である。なぜならば、これは、キリストの自己犠牲によって生み出されたものであるから。

 

つまり、これは聖霊/Spiritus に他ならないのである。

 

”神より生まれ キリストに死し 聖霊によって蘇る” ~ この生と死の秘儀が、この死と生の秘蹟が、日々繰り返される。だがこれは、創造の出来事なので、単なる繰り返し/コピーではない。日々新たなものが生み出される。