幼な子のようにならなければ | 大分アントロポゾフィー研究会

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1 アストラル体は、エーテル体を損なう(そこなう)。エーテル体にとって負担となる。

1‐1 アストラル体が物質にまつわるイメージの集合体のみをエーテル体にもたらす時、エーテル体は死/アーリマンに浸潤(しんじゅん)される。

 

2 エーテル体は、アストラル体に生命(いのち)を与える/もたらす。

2‐1 エーテル体からもたらされるものは、キリスト衝動であり、生命(いのち)/聖霊/ロゴス/Logos と読み替えることができる。またそれは、天使存在の姿をとることができる。

2‐3 例えば、性的なオルガズムは、エーテル体における出来事である。アストラル体は、それによって浄化される。通常、浄化されていないアストラル体が、性的オルガズムのプロセスにネガティヴに影響しがちである。それによってエーテル体は損なわれる。

 

3 アストラル体とエーテル体との結びつきが切れると、人は意識を失う。意識の正体/担い手こそアストラル体であり、イメージの集合体/イメージ体/文脈イメージとして特徴づけることができる。

3‐1 これらのイメージはすべて物質にまつわる。

3‐2 通常、人はこれらの物質にまつわる感覚イメージ/イメージ体/文脈イメージを失うと、意識を失い、眠りに落ちる。

 

4 アストラル体は感覚と意識の担い手。エーテル体は記憶の担い手である。

4‐1 純粋思考は、記憶/想起の思考。エーテル的な思考である。

4‐2 アストラル的思考は、イメージ体/文脈イメージである。

 

”「神秘学を学ぶ人は、完全な意識を保ったまま訓練を行わなくてはならない」ということが、真の神秘学の原則の一つです。神秘学の学徒は、それがどのような作用を及ぼすのか、ということを自分で認識していない事柄に関しては、どのようなことも行ったり、訓練したりしてはなりません。だからこそ神秘学の師は、学徒に助言したり、指示したりするときには、このような助言や指示に従うと高次の認識をめざす人間の体や魂や霊に何が生じるのか、ということをいつも同時に教えるようにするのです。

・・・暗闇のなかを手探りで進んでいくような態度はすべて、真の神秘学の訓練においては厳しく禁じられています。目を見開いたまま訓練を行おうとしない人は、霊媒にはなれるかもしれませんが、神秘学的な意味における霊視者 Hellseher になることはできないのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p.133)

 

5 時間はエーテル界において、本来の姿を現す。エーテル界の時間と鉱物界の時間とは、似て非なるものである。

5‐1 鉱物界の時間が過去から来るのに対して、エーテル界の時間は未来から来る。鉱物界の時間を死の時間、エーテル界の時間を生命(いのち)の時間と呼ぶことができる。

 

”そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「天国ではだれがいちばん偉いのですか」。すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは。片手、片足になって命(いのち)に入る方がよい。もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使いたちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。”(『マタイによる福音書』 第18章)

 

5‐3 「天国」はエーテル界に比することができる。エーテル界に赴き(おもむき)、未来から来る時間の中へと入ると、人は幼子(おさなご)のようになる。そのためには「心をいれかえ」なければならない。つまり、アストラル体に巣くったイメージ体から脱け出る必要があるのだ。人がイメージ体から脱け出ると、ルシファー衝動から自由になる。「自分を低くする」ことができるようになる。

5‐4 アストラル的不浄/ルシファー衝動から自由な幼子は、エーテル界において天使存在と交流している。そこには天使の位階にあるエーテル形姿のキリストも認められる。幼子にはその姿が見える。キリストは幼子には近しい存在なのである。だから、「このようなひとりの幼な子を、わたし(キリスト)の名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである」。

5‐5 まだ幼いが故に、固有の完成されたアストラル体を持たない子どもは、アストラル体の内に構築されるイメージ体から自由なので、エーテル界は極めて近い。そのような子どもに、外からアストラル的なイメージ体を強いて、「つまずかせる」ことは、その子どもの自我への侵害である。

5‐6 確かに、「罪の誘惑は必ず来る」。それは、人のアストラル的不浄を克服させるために、霊的/カルマ的に来るのであって、個人の恣意で「それをきたらせる」わけにはいかない。好き好んで(すきこのんで)、恣意的に、「罪を犯す」わけにはいかないのである。エーテル界/「天」は、極めて繊細・精妙であり、イメージ体のルシファー的情念の嵐と鉱物的即物性/アーリマンの対極にある。あたかも、モーツァルトのように。

5‐7 いずれにしても、イメージ体/ルシファー幻想の情念の世界(「永遠の火」「地獄の火」)に何も好き好んで入っていく必要はない。「命(いのち)に入る方がよい」。エーテル界/パラダイス/paradise に入る方がいいのである。

 

6 未来の記憶を想起すること。これが純粋思考/エーテル的思考であって、例えば、聖書にある数々の預言/予言は、この思考によってもたらされたものである。

6‐1 芸術は未来から来る。つまり、純粋思考/エーテル的思考の産物である。イメージ体が芸術を生み出すことはない。