”原(  )” ~ Ur…/ウァ…/うぁ… | 大分アントロポゾフィー研究会

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”原(  )”は、ロゴス/Logosである。

 

”アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキアの時代に見たものである。・・・”(「イザヤ書」 第1章)

 

”主は再び、アハズに告げてこう仰せられた。

「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」

するとアハズは言った。「私は求めません。主を試みません。」

そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を生み、その名を『インマヌエル』と名づける。この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで凝乳(ぎょうにゅう)と蜂蜜を食べる。それは、まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられるからだ。・・・」”(「イザヤ書」 第7章)

 

「あなたの神、主から、しるしを求めよ」の「しるし」とは、人と成る神キリスト、つまりナザレのイエス/キリスト・イエスである。「よみの深み」とは鉱物界/物質界、そして「上の高いところ」とは霊界/精神界であり、霊が肉となることがここで言われている。

「一つのしるし」とはナザレのイエス、「処女」とは聖処女マリアである。「その子が、悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに」とは、ナザレのイエスの固有のアストラル体がまだ完成する以前に、という意味である。

 

”・・・ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座について、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。・・・”(「イザヤ書」 第9章)

 

「不思議な助言者」とは聖霊である。「平和の君」とはエーテル界に現れる天使の位階のキリストである。「万軍の主の熱心」とはキリスト衝動である。

 

”エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。”(「イザヤ書」 第11章)

 

「エッサイの株」とはダビデの家系を意味しており、その末(すえ)、聖処女マリアがナザレのイエスを産む。ナザレのイエスはダビデの家系である。神の子が人として誕生する。聖処女マリアは聖霊によって受胎するのである。「主の霊」とはキリストでもあるが、他ならぬ聖霊でもある。その霊は「知恵と識別の霊」「思慮と勇気の霊」そして「主を知り、畏れ敬う霊」である。人は聖霊によって満たされる。

 

 

”私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。彼(ナザレのイエス/キリスト・イエス)は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を 彼に負わせた。

彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。

しかし、彼を砕いて、痛めることは 主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを 罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの 激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕りもの(ぶんどりもの)としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。”(「イザヤ書」 第53章)