人間は、思春期に至って、魂において親から離れ、自らのイメージ体を形成し始める。
”・・・このアストラル的な覆いは、子どもが性的な成熟を迎えるまで、アストラル体を活動させ、その内部に力を浸透させます。子どもが性的に成熟すると、このアストラル的な覆いが離れて、人間は第三の誕生を迎えます。人間は、このときアストラル的な意味において誕生するのです。
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・・・0歳から7歳までの7年間に、物質体と結びついた外面的な感覚が解放されるように、7歳から14歳までの7年間に、エーテル体と結びついた習慣や記憶力や気質などが確立されます。そして14歳から21歳の頃までに、アストラル体と関わる批判的な悟性が確立され、子どもは周囲の世界との関係において一人立ちできるようになります。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『霊学の観点からの子どもの教育』松浦賢訳 イザラ書房 p.19~21)
”・・・二十歳(はたち)前の、まだアストラル体が十分に成長しきっていない若者が、健全な判断を下すことは不可能です。それぞれの成長期の子どもには、それにふさわしい働きかけをする必要があります。すなわち最初の時期(0歳から7歳まで)には、「模範と模倣」が、第二の時期(7歳から14歳まで)には、「権威と権威者を見習うこと」が、第三の時期(14歳から21歳まで)には、「子どもに原則を与えること」が、それぞれ必要になります。・・・
・・・人間を四つの構成要素(肉体、エーテル体、アストラル体、自我)との関連において認識することによって、私たちは、「どの時期に、どの構成要素に働きかけたらいいのか」ということや、「いま実際に起こっている状況のもとで、人間が正しく成長できるようにするためには、何をしたらよいのか」ということを知ります。・・・胎児が正しく育つためには、母体となる母親の健康に気を配らなくてはならないのと同じように、私たちは子どもが地上に生まれてからも、子どもを取り巻く環境を正しく整えてあげなくてはなりません。子どもを取り巻く環境が育成されることで、子ども自身も育てられていくのです。私たちはこのことを、さらに霊的な事柄に移して考える必要があります。子どもは、エーテル的な母体の覆いの中でまどろみ、アストラル的な環境の中に根をおろしています。だからこそ、「子どもを取り巻く環境のなかで、必要な教育をどのようにほどこしたらよいのか」ということが重要な意味をもつのです。あらゆる思考も、感情も、おとなが言葉に出さないことも、すべてが子どものまわりに存在するものを動かし、作用します。「口にさえ出さなければ、子どものそばで、どんなことを感じたり、考えたりしてもかまわない」といった考えは通用しません。-私たちは、純粋な思考と感情で、子どもを包み込まなくてはなりません。私たちは、心のもっとも奥深い部分まで、純粋さを保持していなくてはなりません。子どものまわりで、不純な思考を抱くことは許されません。子どもに話しかけても、言葉は感覚的な能力までしか作用を及ぼしませんが、感情と思考ならば、子どものエーテル体とアストラル体を母体のように保護する覆いに、植えつけることができます。エーテル体とアストラル体に植えつけられた感情と思考は、子どものなかにしみこんでいきます。子どもがエーテル的な覆いやアストラル的覆いに包まれているあいだは、私たちは、この覆いを育てなくてはなりません。不純な思考や情熱をエーテル体やアストラル体の覆いに詰め込むと、非常に多くのものがそこなわれます。それは、胎児期に、物質的な覆いである母体に有害なものをもたらすのと同じことを意味します。・・・”(同上 p.34~37)
人はアストラル的な第三の誕生後、彼自身のイメージ体を形成する営みを本格化させる。
この独自のイメージ体は、主に鉱物界に由来するアーリマン原理に緊密に結びつき、ルシファー衝動に根差す情念/感情と種々のイメージによって成り立っている。アーリマン原理とルシファー衝動から成る文脈イメージである。
この第三の誕生以後、人はいわば、このようなアーリマン/ルシファーの時空の中に、すっぽりと入り込み、この時空こそが現実であると思い込む(錯覚する)のである。たしかに、似てはいるのかもしれないが・・・。
さて、人間の第四の誕生は、いつどのように起こるのだろうか?
それとも、そのようなものはないのだろうか?
第四の誕生は、人が自ら構築した彼自身のイメージ体から脱する時に起こる。
アーリマン/ルシファーの時空から脱け出るのだ。いわばアストラル的な錯覚から目覚めるのである。
”・・・ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼(サウロ/パウロ)を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」・・・サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。・・・彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。・・・アナニヤは出かけて行って、・・・サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、わたしを遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。”(「使徒の働き」 第9章)