人はパンだけで生きるものではない(4) | 大分アントロポゾフィー研究会

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人間の肉体の3つの働き(神経・感覚組織、呼吸・血液・律動組織、手足・新陳代謝組織 cf. Rudolf Steiner)は、基本的に肉体自身の意志に従っており、いわば自動化している。植物たちが大地の宇宙的リズムに従い、動物たちが本能に従っているのと同様に、私たちの肉体は、いわば自然・宇宙の意志に従っているのである。

この自然・宇宙の意志を、神あるいは神々と呼び換えることができる。また、霊的ヒエラルキア存在と呼んでもよい。

 

しかし、人間は自らの(精神/魂の)想像力と思考力によって思考し、イメージを作り出すことによって、この地上世界を生きなければならない存在である。自らの精神/魂、つまり他ならぬ自我の働き、思考によって、人間はこの地上世界を生き抜いていかなければならないのである。

受肉によって霊界/精神界から切り離され、自らの肉体を纏って(まとって)、個体として生きる。霊的ヒエラルキアによって与えられた肉体を、自らの思考によって統べていかなければならない。自我が肉体の主人とならなければならない。

 

肉体は、es/それに由来する。es/それの正体は、大地の神/神々なのだが、当然のことながら、人間の自我にとっては他者(es/それ)である。

だから、基本的に肉体は人間の自我の言うことを聞いてはくれない。思い通りにはならないのである。

 

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古代より今に至るまで、人間は”全体的なるもの”に憧れ、それを自らの手の内に収めようとする営みを止めなかった。

古代の人間においては、むしろ個的な自我よりも集合的な自我が優勢であったから、国家のような文脈イメージに容易に結びつくことができ、例えば王やファラオに自らの全体への憧れと希望を託すことができた。

しかし、やがて王に象徴されるそのような文脈イメージの効力に、疑いの念が生じてくる。多くの場合、その文脈イメージを以てしては、説明がつかない”出来事”が起こるようになり、日々の暮らしが立ちいかなくなるのである。

このような経緯と同時進行で、そしてこのような成り行きが大きなきっかけとなって、人は集合的な自我から分離し自立しようとする個的な自我を自らの内に見出すことになる。

 

集合的な自我から個的な自我へと移行する過程で、人はますます”全体的なるもの”から離れていくことになる。

人間の視野は狭くなる。

個的な自我の有する意識/魂の持つ志向性という特性が鮮明になってくる。一時には一つの対象しか目に入らないということだ。集中力が高まる一方で、全体を俯瞰することが難しくなる。一つのものには注意ができるが、それ以外のものには無頓着(むとんちゃく)になる。

 

しかし、”全体的なるもの”への憧れは失われることはない。

究極的には、全体とは宇宙であり、霊界/精神界、言い換えれば、神/神々であって、誰もがそこからこの地上の世界へとやってきたからである。

しかも、霊的ヒエラルキア存在たちは、この地上世界においてもその働きかけを止めることはない。その大きな実に明瞭な証(あかし)は、私たちがこの地上世界を肉体をもって生きていられるということである。