人はパンだけで生きるものではない(3) | 大分アントロポゾフィー研究会

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私たちの魂の目に、あたかも地上世界の実相であるかのように映っているものが、イメージに他ならず、それはイメージである以上、実相ではなく仮象であるということに留意する必要がある。

 

何らかのきっかけによって、文脈イメージが消失するという事態が起こり得る。

突然、眼前の景色が不穏な感じに包まれる。その時、人は時間の感覚を(一時的に)失っているのである。

そのような事態がいつどのようにして生じるかは、予測できない。

家の近所を散歩しているときに、起こることもある。いついかなる時にも起こり得る。

見知らぬ土地をさまようと起こりやすいということは言えるだろう。

 

既視感(デジャヴュ)や離人感に似たようなこの感触が生じるのは、霊界から切り離され、この地上世界に誕生した人間の誰もが否応なく抱く根源的な疎外感と不全感に原因がある。

この疎外感と不全感に苛まれ、人はイメージに助けを見出す。イメージと共に人間は他ならぬ地上の存在となるのである。

この地上の世界において、すべて他者(es/それ)はイメージとして現れる。他者(es/それ)の実相は隠されるが、イメージは鮮明に見える。そして、イメージは虚構(フィクション)である。

 

あるイメージは他のイメージを見えなくする。

また、あるイメージが別のイメージと重なる。

あるイメージによって、他のイメージが浮かび上がる。

人間の肉体に備わる五感(感覚器官)が謎に満ちているように、まさにそれと呼応するように、各イメージ間の関係性も謎に満ちており、人間の魂の空間において、イメージはあたかも魔術のようにふるまう。

そして、私たちの思考と感情と意志を支配する。

 

イメージに支配され、ある人に見えているものが、別の人には見えていない。

私が当然だと思っていることを、別の人は受け入れない。

彼が良かれと思ってしてくれたことを、私は誤解して拒絶する。・・・

これがイメージの支配である。

 

イメージによって思考が囚われると、そのいわば硬直した思考が感情を支配する。

硬直した思考が硬直した感情を生む。そして硬直した感情と共に硬直した意志が生まれる。

この時、人はイメージの奴隷になっているのである。

 

イメージによって思考が囚われるとは、思考が何らかの文脈イメージと同化していることを意味する。